Opinion : 今年の漢字は "憎" または "裂" ? (2011/12/19)
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blog で「個人的には、今年の漢字は『転』だ」なんてことを書いたけれど、世間を見ると、どこぞのお寺がいうところの「絆」よりもむしろ「憎」あるいは「裂」ではないのかなあ、なんてことを思ってしまった。同じ国の中で、あまりといえばあんまりな形で分裂や憎悪があからさまになったと思えたから。
生身の人間のことだから、何事であれ「好き」「嫌い」の感情が発生するのは当然のことであるにしても、その「嫌い」が「嫌い」で留まらずに「憎悪」「嫌悪」に発展して、粗探しと罵詈雑言のオンパレード、なんて事例が目立ったような気がする。
さらには、その「憎悪」「嫌悪」の対象そのものの粗探しだけに留まらず、対象となるもの (ものとは限らないか) に関連する物事すべてが憎悪の対象になり、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」状態にエスカレートしてしまうのだから、まったくもう。
原発がらみで犠牲者が出たという話を耳にする度にハッスル (?) するのなんか典型例だけれども、とにかく朝から晩まで PC やスマートフォンや携帯電話に張り付いているのか、嫌いな対象に関するネガティブな話がなにか出てくる度にダボハゼのように食いついてツイートしてばかりいて、それで楽しいのかなあ ?
やっている本人は正義の味方のつもりかも知れないけれど、それを傍から見たときにどう思われるか、ちょっと考えてみた方がいいような。いや、それができるようなら、最初から (以下略)
これってなにも原発に限った話ではなくて、たとえば F-X 候補機でも、XC-2 や XP-1 と競合する海外メーカー製の機体に対する扱いでも似たところがある。「○○が嫌い」だけならともかく、そこからエスカレートして「○○がらみの不幸をな話を歓迎する傾向がある」という点において。
憎悪の感情がものすごいエネルギーにつながることもあるとはいうものの、それはどちらかというと例外で、度が過ぎた憎悪の感情は後に遺恨を残すだけ、ということの方が多い。そんな事例は、領土紛争や民族紛争の類について調べてみれば、「わんさ」と出てくる。
それでも、福島第一原発の事故に関連して東京電力、あるいは国の原子力政策に矛先が向くのは仕方ない部分がある。といっても、嫌悪や憎悪の感情や、それによってどういった行動をとるかは程度問題。「ものには限度」というものがあり、何をやっても許されるということはなかろうに。
それにつけても理解不可能なのは、「被災地の瓦礫受け入れ反対」であるとか、「福島の農家を殺人者呼ばわり」とかいった類の言説。前者については東北地方の地図を見た上でモノをいっているのか !? と思うし、後者については物言いをつける相手が根本的に違う。
もはやこれは反原発でも脱原発でも何でもなくて、単に分かりやすい「敵」を作って盛り上がっているだけなんだろうか。しかもそれが激しく憎悪の感情を滾らせていて、それこそ「臨界」状態なのだから手に負えない。そんなことをやっていても、脱原発のためにはまったく役に立たないだろうに。
当事者は、そうは思っていないのかも知れないけれど、「棒を振り回して威嚇されたときに、棒にばかり飛びかかって、その棒を動かしている人間を無視する犬」と同じことをやっている、という自覚はまるで存在しないらしい。
「福島から避難しろ」というのも同じで、被災者のことを思って避難を呼びかけているというよりも、自らの憎悪を正当化するための「人が住めなくなった福島」という既成事実が欲しいだけなんじゃないの ? と思ってしまった。これが思い過ごし・考え過ぎであることを願うが。
と、ここまで書いたところで気がついた。福島県の農家に矛先が向くのも根っこは同じで、「人も住めなくなった福島県」で「人が住んでいる」とか「安全な農産物が出荷される」とかいう話があると、「原発事故で人も住めなくなった福島県」という主張 (かつての「70 年間は草木も生えない広島」と似たようなもんである) が不成立になるから、それが嫌なのか… ?
しかしそれって、「憎悪」の発露としても何か間違ってると思うけれど。結局のところ、同じ国の中に遺恨のタネをばらまいて、物事の解決を遠ざけているだけなんじゃないだろうか。そういう話ばかりが広く伝えられる状況下で「絆」なんていわれても、なんか釈然としない。
反原発でも何でもそうだけれど、なんかこう、もっと広く納得して受け入れられるような形で運動できないもんなのかな、と思ってしまうことしきり。
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