Opinion : 安全を名目にすることが生み出す危険 (2012/3/26)
 

例の「震災瓦礫」の話。
最近、ようやく首長が「瓦礫の受け入れ」を表明する自治体がいくつか出てきたけれども、相変わらず、受け入れを表明する、あるいは表明しようとすると、どこからともなく反対派が湧いて出てくる状況は続いている模様。

「放射性物質ゼロ」はそもそも絵空事だから、そんな無理難題を主張する時点で「自然界に存在する放射性物質や放射線を無視するのか」と突っ込まれて墓穴を掘ることになる。それでも、「放射性物質の恐怖」を煽るのがもっとも分かりやすい方法だから、ついつい、この方法に依存して「反対」を唱えてしまうのか。

ただ、それだけが理由なんだろうか、と疑問に思えてきて、そこから思ったことをつらつらと書いてみようと考えた次第。


で、何をいいたいのかといえば、「放射能の恐怖」を本気で信じていて、それで「放射性物質ゼロ」を求めている人ばかりじゃないのかも知れないなあということ。そこであれこれ思案して、到達した結論は二種類。

ひとつは、ネタは何でもいいから「反対運動」をやりたくて、そこで「放射能の恐怖」という格好のネタを使える震災瓦礫に飛びついた可能性。この手の人っておそらく、状況が変わり、もっともキャッチーで支持を集めやすいネタが別に出てくれば、コロリとそちらに矛先を転じて、それまでやっていたことは忘れ去ってしまいそうである。

さらにもうひとつ。「ひょっとすると」と推測してみたのが、「震災という現実から逃避したいという心情」という話。被災地で発生した瓦礫が持ち込まれれば、震災という現実が追いかけてくることになる。それを拒絶する心情が、放射性物質という名目を掲げた「瓦礫受け入れ反対」につながってないんだろうかと。

もちろん、ここで書いていることはあくまで推測だから、実際に上で書いたような理由から「瓦礫受け入れ反対」を唱えている人がいる、あるいはそういう人ばかり、なんてことは断言できないし、するべきでもない。ただ、なんにしても「安全」「安心」が目的ではなく名目になると、本当の危険につながりはしないかと。そっちが本題。


科学的、技術的、あるいは統計的に安全だと分かっていても、それが安心感に直結しないのは、自動車事故と航空事故の比較を持ち出せば一目瞭然。それを逆手にとって、安心感を揺さぶり、不安感を煽ることで目的を達成しようとする人がいる。

「安心・安全」を名目に掲げると「安全ではないから安全にしろ」と言い続けることになる。ところがたいていの場合、「どうすれば安全になるのか」「どこまで安全になれば受け入れるのか」ということはいわない。100% の安全、0% の危険を要求するという無理難題になる。

その場合、不安感を煽る際に、おどろおどろしい話、残虐に見える話を持ち出してくることが多い。そして、「安全」を要求するけれども「本当に安全になられては困る」という矛盾話法になる。(なにせ、名目がなくなってしまうわけだから)

ともあれ、一方が「安全ではないから安全にしろ」と言い続ければ、それに対応する側は「いや、安全です」と返さざるを得なくなる。そこで、万一の事故やトラブルに備えて対策や訓練をやろうとすると「安全だといっていたのはウソなのか」と叩かれる。そして、いざ本当に事故やトラブルが起きると「ほらみろ危険じゃないか」「安全神話の崩壊だ」といって叩かれる。これではまっとうな安全議論なんて成り立たない。

方向性としては正反対ながら、安全保障をめぐる議論にも似たところがありそう。

こんな対立が発生すると結局のところ、その対立の狭間で事故に巻き込まれる人、あるいは (事故の内容によっては) 風評被害に巻き込まれてて被害を受ける人が、いちばんの貧乏くじ。しかも、「安心・安全」を名目にして「○○反対」を唱え続ける人は、そういう被害者すらもダシに使うのである。それでは社会全体が不幸になるんじゃないだろうか。

なお、本気かつ真剣に安全性を問題にしているのであれば、煽り・ダマカシ的手法はとらないもの。もっとキチンと、ロジックや数字に立脚した話をした上で、現実的に許容できる落としどころを探ろうとするはず。それであれば、当事者もキチンと向き合って答えを出すべきなのは当然。

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