Opinion : それって周囲から見てどうなの ? な話 (2012/4/16)
 

最近、キハ 30 狙いで何回か久留里線の撮影に行ったのだけれど、そのたびに空振りに見舞われて、やってくるのはキハ 37 とキハ 38 ばかり。もっとも、この両形式にしてもリプレースが決まっている「絶滅危惧車」だから、被写体にするに越したことはないのだけれど。

ところが、特にキハ 38 については、どうにもこうにも「写欲」が減退してしまう。といっても車両そのものの問題ではなくて、見かけるキハ 38 が軒並み、うんざりするぐらい汚い車体だから。塗装や色使いの問題ではなくて、掃除が行き届いていないという意味で。


鉄道事業者は人やモノを運ぶのが商売だから、何が商品かと問われれば、輸送を受け持つ列車ということになる。無論、列車をどのように動かすかを規定するダイヤグラムも商品だけれど、その列車自体を構成する車両とて商品に違いはない。となると、その商品があまりにも汚らしいのって、乗客の目から見たらどうなんだろう。

もちろん、自家用車の車体と同様、天候などの理由で不可抗力的に車体が汚れてしまうのは仕方がない。これは路線によって差がありそうだけれども、たとえば常磐快速線の E531 系なんか見ると、季節によっては虫の死骸が盛大に付いて、前面がひどく汚れていることがある。

不可抗力の部分があるにしても、前面視界を妨げて安全に関わる問題を起こすことも考えられるから、きれいにするよう努力するに越したことはないはず。その点、東海道新幹線なんかは車体をきれいに保っている部類だと思う。高速運転をしていて、その分だけ汚れる原因が多そうだというのに。

そもそも、これは安全云々だけの話ではないはず。車両は乗客からもっとも身近なところにある「商品」なのだから、それが汚らしい姿のままで走り続けているとなると、運輸業というだけでなく、接客業としての気構えの部分で問題があるんじゃないかと。

さすがに最近では見かけないものの、かつてのように労働争議がらみで車体にスローガンを書きなぐったりアジビラを貼り付けたり、なんていうのはもう、接客業という観点からすると「なっていない」部類に属する。いくら、当時は民間企業ではなく「公共企業体」だったといっても、ものには程度・節度というものがある。

別の場面を考えてみればいい。たとえば、飲食店でも、あるいは物販でもいいけれども、壁やドアに「賃上げ貫徹 !」なんて書きなぐられたお店を見せられたら、不快感を抱く人の方が、そうでない人よりもずっと多いんじゃなかろうか。

スローガンやアジビラがなかったとしても、外観や内装が汚れまくっているお店より、キチンと掃除が行き届いているお店の方が好印象を抱かれるものでは。と考えると、冒頭で引き合いに出した久留里線のキハ 38 に限らず、鉄道車両もバスもタクシーも飛行機も、内外装の掃除が行き届いているに越したことはない。

そういうことを無視して、肝心要の商品に落書きをしたりアジビラを貼り付けたりするような労働争議のあり方が、果たして周囲の社会に受け入れられ、支持されるもんなのだろうかと。そんなところまで考えが発展してしまった次第。


煎じ詰めると、自分達の運動のことばかり考えていて、それが周囲からの目線に対してどう映っているか、自分達の本業に照らして理に適ったやり方なのか、というところまで考えが及んでいないのだろうなあと。そうでもなければ、大事な商品をみっともない姿にして、それで平然としていられる訳がないんじゃないの ?

よしんば、お題目として「乗客のために」とか何とかいっていたのだとしても、その乗客に接する部分でみっともない姿を見せてしまえば、「実は乗客の方なんて見てないだろ」と思われても仕方ない。(これは労働争議をするなという意味ではなくて、労働争議をするのにもやり方があるだろうに、という意味なので、念のため)

これってよくよく考えると、なにもかつての国鉄の労働争議に限った話ではなさそう。自分達の立ち居振る舞いが周囲の社会にどう映るか、受け入れられるか、という見地が欠落して、内輪の論理だけでどんどん暴走してソッポを向かれて支持をなくす事例、過去にも現在にも、いろいろあるよねえ ?

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