Opinion : 対立を完全に避けられるわけじゃないんだから… (2012/10/29)
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いつだったか「『安全』を名目にして反対運動をやると、それに対応する側は必然的に『安全です』といわざるを得なくなり、それが結果として、却って危険につながって良くない」という趣旨のことを書いた。
それを敷衍すると、「安全神話」なるものは、当事者が一方的に主張するものというよりも、当事者とそれに反対する側が一緒になって作り出してしまっているんじゃないか、という話になる。
もちろん、100% の安全を実現するのが不可能でも (それができたら神様である)、それに近付ける努力は必要。
ただ、その努力をするためには、まず「どういう危険があるか」「どういうリスクがあるか」を過不足なく認識した上で、危険要因・リスク要因をひとつずつ潰していく地道な努力が要る。何かひとつの手段や対策だけで、インスタントに安全が実現する訳じゃないから。
つまり、まずは「危険はあるんだ」と認識した上で、それに対してどう向き合うかという話。といったところで考えてみると、「安全」の話に限らず、「対立」も同じかも知れない。
往々にして、誰かと対立することを嫌って「実は誰でも仲良くできるはず」「こちらが譲歩すれば問題解決」と考えてしまう向きが見受けられるけれども、そんな簡単な話かいな、と。
つまりは adversary と enemy の違い。adversary が存在するのは仕方がないとして、それを enemy にしてしまうようなエスカレートを防ぐ、という知恵が要るんじゃないかと。最近の領有権争いをめぐる話なんかを見ていると、そんなことを思う次第。
そこで「adversary = enemy」と思い違いをすると、↑に書いたような逃げの思考、つまり「(enemy だと思ってしまっている) adversary の存在そのものを "なかったこと" にしようとする心理」に走って目の前の現実から目をつぶったり、反対に「enemy なんだから滅ぼしてしまえ」となったりする。
どちらも両極端で、「adversary の存在を認識しつつ、でもエスカレートさせない」という対応にはつながらない。なにも、「国家同士の領有権争い」なんていうデカい話に持って行かなくても、個人レベルの対立だって似たようなもんでしょ ?
自分と意見が合わない人、考えが合わない人がいる。それは仕方ないとして、過激な対応にならないように自制したりスルーしたりといったことができる人もいれば、相手を滅ぼして消し去ってしまうか、そこまで行かなくても何らかの形で "粉砕" してしまわないと納得できない人もいる。
そういえば、軍事系物書きの同業者同士でも、モノの見方・考え方は人それぞれ。だから、同じ雑誌に書き手によって異なる見解が載ることもあるわけだけれども、それはそれ。どちらに納得するかは読者の皆さんが決めればいいこと。
もちろん、その見解が違う同業者同士が記者会見の席なんかで顔を合わせることがあっても、そこでいきなり喧嘩を始めることはない。というか、そんなことをするような人は最初から、職業物書きなんて務まらないと思う。いや、そもそも社会人としてどうかと。
そういう意味では、ネット上での対立って始末が悪い。面と向かっていえないような罵倒・罵詈雑言でも「ついつい」やってしまうし、adversary を enemy だと思ってしまうこともありがちだし (経験者談)。
遠い昔のパソ通時代からそうだったのだから、関わる人の層が広がり、数も増えた現在ならなおのこと。特に、つい反射的に書き込んでしまいがちな上に使える字数が限られる Twitter は最悪の媒体といえそう。(Twitter そのものに罪はないんだけど)
自分が Twitter のアカウントを「非公開」から「公開」に変更する際に「議論しない」という原則を掲げたのは、そこのところがヤバイと思ったから。だから、意識的に Twitter では馬鹿話ばかりしている次第。いや、リアルでもあまり違わないか。
この「対立の存在に目をつぶる」とか「対立者はすべて敵」とかいうのを、個人がネット上でやっている分には、ビットが右から左に流れて消え去るだけだから、まだいい。でも、政治の場でやられると問題だなとは思う。
特に国家間の領土争いなんていうのが絡むと、先日にも書いたようにこれは「劇薬」だから、どうしても吹き上がる人が出るし、それに媚びることで勢力を伸ばそうとする人も出るわけで。熱くなりすぎず、でも砂の中に頭を突っ込んで何も見えない振りをすることもしない。そこの匙加減が難しいところ。
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