Opinion : 贔屓と嫌悪の背中合わせ (2012/11/19)
 

いわゆる「贔屓の引き倒し」の話について、いつだったか、書いたことがあったと記憶している。それって実は、先週に書いた話ともつながってくるのではないかと考えた次第。

対象が芸能人でも車でもカメラでも戦闘機でも、あるいは国でも何でも同じだけれど、個人的な思い入れがあって贔屓するのはかまわない。

ただ、贔屓の度が過ぎて、(自分の思い入れの対象について) 「ネガティブな話は一切受け付けない、存在を認めない」「法や制度を曲げても構わない、例外を作っても構わない」なんてことをいい出すようになると、それは問題じゃあないかと。そういうのはもはや「愛情」「思い入れ」を超えていて、「盲愛」「偏愛」のレベル。

それがさらに突っ走ると宗教になり、「教祖様」というか、対象についてポジティブな話、景気のいい話を書く人のいうことしか聞かなくなる。さらに先鋭化すると、「教祖様に刃向う者どもを叩き潰せ」なんてことになるのだけれど、そうなると、ますます危険なんじゃないかなあと。


と、ここまでは「思い入れ」がある場合の話だけれど、反対に「○○が嫌い」という場合にも同じことになるなと思った。誰かが何かを嫌いになることを禁じることはできないし、禁じるべきでもない。ただ、その「嫌い」という感情との付き合い方は、ちと考えないといけない。

竹島をめぐる対立、あるいは何かというと出てくる「謝罪と賠償」云々の話がきっかけでで「韓国嫌い」になるのは個人の自由。でも、だからといって、韓国に関わるものが自分の目につくところに出てきた途端に、何でもかんでも「韓国推し」「韓国びいき」「韓国のステマ」といい出すのは、ちょっと嫌悪の度が過ぎてるんじゃないの、と。自分の家に韓国企業の製品を置きたくない、というぐらいならともかく。

テレビ局が韓国のドラマをやたらと放送するのが怪しからんという人もいるけれど、そんなもん、やれば視聴率が取れると思うから放映するだけの話。視聴率が取れなくてビジネスとして成立しなくなれば、自然と放映しなくなるだろう。その程度のもんである。「視聴率が取れなくてスポンサーがつかないのに、どこからかの圧力で、あるいは内輪の方針で放送を継続する」なんて、そうそうあるもんじゃないだろうに。

なんてことを書くと、「いや、これは○○の陰謀でやっていることだ」と噛み付いてくる人がいそうだけれども、ソースを尋ねたらどうなるだろう。たいていの場合、「誰かが書いてたのがコピペされてた」とか「自分の脳内で想像した」とかいうことじゃないかと。blog でも Twitter でも何でも、誰だって「自分が見たい」と思う方向性の記事を書くところ、あるいは人に依存しやすいものであるし。

これって、「反戦平和」を叫ぶ人が「戦争に関連するものを世の中から消し去ってしまえば平和になる」と考えがちなのと似てるかも ?

これは中国がらみでも同じ。なるほど自分も、先日に洗濯機がぶっ壊れて買い直す羽目になった時に「中国メーカーのバッジが付いた製品は嫌だなあ」と思ったけれども、それは自分だけでどうこうできる範囲の問題だからそうしたまで。

だから、それを他人にまで押しつけて、身内・友人・知人が中国メーカーの製品を買おうとしたときに噛み付こうとは思わない。ましてや、中国メーカーの製品を置いている販売店にイチャモンつけるなんて論外。個人個人が自分の範囲でボイコットして、それが結果的に全国的な流れになるならともかくとして、それを無理矢理他人に押しつけるなと。

何を売るかは販売店の自由。もしも消費者がこぞって中国メーカーの製品を忌避するようになれば、自然と販売店は中国メーカーの製品を置かなくなるのが通例ではなかろうか。さっきのテレビの話と同じ理屈で。


なんというかこう、「嫌い嫌いは好きのうち」とはちょっと違うかもしれないけれども、「嫌うが故に、却って気になって仕方がない」「でも、自分の目につくところからは消え去って欲しい」というパラドックスに陥っていないかどうか、考えてみてもいいんじゃないかと思う次第。

辞書を見ても「盲嫌」とか「偏嫌」とかいう言葉は載っていないけれども、「盲愛」「偏愛」とは逆の方向に行ってみたら、ぐるっと回って同じようなところに来てしまいました、というオチに見える。

となると。ひょっとすると、「反原発記事大好き」の某新聞って、実は原発が大好きで、気になって気になって仕方がないとか ? (こらこら)

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