Opinion : 文系と理系の問題というよりも (2013/9/16)
 

しばらく前に、こんな記事が話題になったとのこと。

「放射能が怖いのは文系、低所得、非正規、無職」- 慶応大の調査結果に、反響さまざま

件の調査結果がどこまで正鵠を射たものなのかどうかについては、判断する材料を持たないのでノーコメント。ただ、「科学的知識の欠如故に恐怖を感じる」というだけの話なんだろうか、なんてことをふと思った。

それはどういうことかというと、危険やリスクとの向き合い方の問題じゃないか、という話。もちろん、そこでは科学的知識も関わってくるのだけれど、むしろ「科学の分野におけるモノの考え方を受け入れられるか」という問題なのでは。


別に原発事故が起きなくても、放射線を浴びる機会はいろいろある。自分もときどき、飛行機に乗ったとき、あるいは歯医者に行ったときに浴びている (ぇ。
でも、特段の恐怖を感じないのは、過去の実験や統計的実績で「この程度なら大丈夫」という閾値が分かっていて、その範囲内で済んでいるのだろう、と思うから。つまり、データに基づくロジックという話。

サイエンスやエンジニアリングの世界では基本的に、判断基準になるのはロジックとデータではないか。いいかえれば、ロジックが適正だったりデータが許容範囲内だったりすれば OK、という話。

よく、飛行機に乗るのを怖がる人がいて、それに対して事故率の数字を引き合いに出して納得させようとする人がいる。なるほど、統計では飛行機の方がずっと安全。
そこでちょっと極端な話を持ち出すと。ママチャリの前後に子供を乗せて、大荷物を抱えてフラフラ走っていたら、そっちの方がずっと危ない。そういう人が「飛行機は怖いから乗らない」なんていったらギャグだけれど、本人はおそらく大真面目。

そこで出てくるのが、さっき書いた「モノの考え方を受け入れられるか」という話。乗り物の安全性という話でいえば事故率の高低。化学物質や放射線なら一定期間内の許容量。そういうロジックやデータを受け入れられるかという問題で、ひょっとすると「知識があっても、そこで用いられているモノの考え方は受け入れない」なんていう人もいるんじゃなかろうかと。

これを平たく書くと「理屈はそうかも知れないけど、感情・感覚の部分で受け入れない」という話。「事故現場が悲惨なものだと恐怖感が強い」「事故率の数字が同じでも、見た目がフツーのものよりフツーでないものの方が危険そうに見える」「危険そうなものはゼロにしないと納得しない」「許容範囲内でも人工的なものだと拒絶反応が起きる」とか。

そこで、サイエンスやエンジニアリングに関わっている人は、データやロジックで説得しようとする (もともと、そういうマインド セットだから当然のことで、非難すべき筋合いではないんだけど)。ところが、上で書いたような人が相手になると、いくらデータやロジックで納得してもらおうと思ってもダメ。かくして、話はいつまで経っても段違い平行線。

冒頭の慶応大学の発表も「統計学というロジック」と「データ」に立脚しているけれど、「文系、低所得、非正規、無職」というキーワードを入れたことで「なにぃ、馬鹿にするな !」と怒り出す人が出現することまでは考慮していなかった… のだろうか。

となると、何か別の方策が必要だと思うのだけれど、ロジックで考えても「別の方策」を思いつかない。はてさて、どうしたものか。


あとは、自分自身、あるいは自分が決断したこと・判断したことに対しての向き合い方という問題だろうか。

自分なりに筋道を立てて評価・判断した結果であれば、悪い方に転んだときに、判断のどの部分に問題があったのかを振り返れる。でも、筋道もデータもなしにその場のノリ、あるいは他人の発言や伝聞に乗せられて意志決定した場合、責任を他者に転嫁するんじゃないかということ。

すると往々にして、誰か分かりやすい (←これ重要)「悪役」を設定して、そいつをぶっ叩くことで自分を納得させようとするかもしれない。太平洋戦争が悲惨な負け戦に終わったときに「軍部が悪い」で済ませてしまったのは、このパターンの典型例ではないかと思うのだけれど。

あるいは、比較優位という方法。つまり「自分よりも悲惨な目に遭っている人がいるのだから」「自分よりも酷い過ちをやって人がいるのだから」といった形で、自分を納得させようとするのもありそうな話。

しかし、そういうことでいいのかなあ。

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