Opinion : 二つの正義 (2014/10/13)
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スポーツ (特にマイナー分野) でも科学研究でも何でも、「下積み・雌伏の時代には見向きもしないくせに、いざ五輪だのノーベル賞だのという晴れ舞台で成果があがると途端に大騒ぎ」というのがマスコミ報道の常。なんで、そんなことになってしまうのか。なんていうことを考えてみた。
そこで出てきた推論は、「報道機関が信奉する正義」と「読者・視聴者が喜ぶ正義」という 2 種類の基準の間で落としどころを探ると、こういうことになるのではないか、というもの。
スポーツ選手の育成でも、科学技術研究でも、なんの努力も苦労もしないで、いきなりパッと結果が出るはずがない。当事者は、練習あるいは試行錯誤などといった形で、ものすごい労苦を積み重ねている。それを支えるには、おカネや施設などといった形のリソースが要る。
ところが、そのリソースを支えるために国費を支出するという話が出たらどうなるか。多分、「税金の無駄遣いだ」とか「一番にならなければいけないのか、二番手でもいいではないか」とか「ナンバーワンじゃなくてオンリーワンになれればいい」とかいって反対する人がきっと出る。
となれば当然、そういう姿勢で記事や番組にする報道機関だってありそうだ。つまり、そこでは「国費を投じるなんて怪しからん」という形の「正義」が勝っている。
ところが、苦労を本人に預けておいて、いざ結果が出ると、今度は「読者・視聴者に対するウケ」という別口の「正義」がしゃしゃり出てきて、賛美・美談の奔流が起きる。それに、晴れ舞台で結果を出した「国民の英雄」を持ち上げるのは、「報道機関的な正義」にも適う。
なんていうことなのかなあと思ったけれど、ハズレかも知れない。単に「努力している現場では数字はとれないが、結果が出た後で過去の努力を美談として取り上げれば数字がとれる」ということだったりして。
ただ、二種類の「正義」がとっかえひっかえ出てくる事例は、先日の台風襲来時に JR 西日本が決めた「予防運休」がらみの報道でもみられる。
まず、「交通機関は安全な輸送を実現しなければならない」という「正義」がある。だから、台風その他の自然災害で列車が事故を起こせば、「事故を起こすとは怪しからん」とか「風の息づかいを感じていれば…」とかいうことになる。
ところが、交通機関というのは動いていてナンボの存在でもある。だから、台風襲来などの場面で予防的に安全策をとって列車を止めると、必ずといってよいぐらい「列車が止まって困惑する利用者」のニュースが流れる。「利用者を困らせるとは怪しからん」というトーンは、報道機関の正義にも、視聴者に対するウケにも、どちらにも適うことだから、そうなる。
どちらに転んでも文句をいわれるわけだから、文句をいわれる方はたまったもんではない。
一方で「激安」を持ち上げておいて、他方で「デフレ経済から脱却できなくて大変だ」とやるのもそう。前者は「読者・視聴者が喜ぶ正義」が勝っていて、後者は「経済を成長させなければ」という正義が勝っている。二種類の「正義」の間で行ったり来たりしているから、こういうことが起きてしまう。
でも、記事を書いたり番組を作ったりする側は、特に矛盾したことをやっているという意識は持っていないのかも。「社論としての正義」だろうが「読者・視聴者が喜ぶ正義」だろうが「正義」には変わりはないし、その多くは、表立って反論するのが難しい種類のものだから。そして、それらが無意識の中に頭の中でスイッチしているのではないかと。
ある新聞社の方が話していたことだけれど、「これは報じなければならない種類の話だろう」というだけでは駄目で、「読者ウケ」という要素は外せないものであるらしい。といって、社として掲げている「正義」も外すことはできないから、両者の力関係 (?) の間でフラフラするのはありそうな話。
商売でやっている以上、「読者ウケ」「視聴者ウケ」といった要素も無視できないのは分かる。でも、その一方で「不偏不党」とか「社会の木鐸」とかいう奇麗事をいったり、両論併記してバランスを取ったつもりになったりしているから、矛盾が生じておかしなことになるんじゃないかと思った。
もっとも、媒体によっては「読者が喜ぶ正義」が極端に強い場合もある。某オッサン向け夕刊紙なんか典型例だと思うけれど、あそこの場合にはハナから「社会の木鐸」なんてことはいってないか。でも、「大新聞はダメだ」といってる自分達だって、規模からいえば「大」に近いんじゃないかと思うよ。
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