Opinion : 仮定に基づいて叩くことの是非 (2015/4/13)
 

昨日、山手線と京浜東北線が 9 時間以上もストップした。すでに老朽化に伴って交換を決めていた架線柱が、対処する数日前に倒壊してしまったためだと報じられている様子。さらに、倒壊した架線柱が線路に支障しそうになっていたという話も出てきた。こうなると、ニュースの見出しは決まっている。

「あわや大惨事」

類型として、「もしも○○したら大惨事」というのもある。


これに限らず、インシデントが発生したときに仮定の話を付け加えて「大惨事になっていたかも知れないじゃないか、大変だ」という類の記事や番組に仕立てるのは、ひとつの定番といってよいかもしれない。

その仮定が荒唐無稽な妄想に類するものであれば、それは笑って切り捨てればよろしい。でも、それができないインシデントも少なくない。ただ、だからといって何でもかんでも条件反射的に仮定の話をくっつけて「もしも○○したら大惨事」とか「あわや大惨事」とかいう話に仕立てることになれば、それはちょいと安直すぎやしないか。

仮定の話をくっつけて「一歩間違えば大惨事」というなら、首都高速道路なんて毎日のように随所で「一歩間違えば大惨事」のオンパレード。しかし実際には、「ステアリング操作のミスに起因する大規模多重衝突事故」なんていうのは、そう滅多には起きない。「ヒヤリハット」ぐらいはしばしばありそうだけど。

インシデントがインシデントで終わった場合もあれば、アクシデントに発展してしまった場合もある。前者の中には、本当に運が良くてアクシデントにならずに済んだ場合もあれば、そもそもアクシデントになる可能性はない、あるいは低い場合もあり得る。

そこのところの違いを無視して、十把一絡げに「もしも○○したら大惨事」「あわや大惨事」といって話を大きくして騒ぎ立てて、それで世の中の不条理を暴き、叩いたつもりになる。それで本当に物事がいい方向に運ぶのか、といえば疑問が残る。

件の山手線の架線柱の話についていえば、これは倒れる方向や倒れた後の支障の内容、そして倒れるタイミング次第で、もっと大きな事故に発展する可能性があったことは否定できない。だから、撤去する前に倒壊してしまった原因について追及するのは必要なことだし、大いにやるべき。

でも、そこで「一歩間違えば大惨事」「あわや大惨事」というマジック ワードを持ち込んだ途端に、もう「何でもあり」になってしまって、ただの叩き大会になる。仮定の話なら何とでもいえるのだから。

困ったことに、仮定の話に基づく「もしも○○したら大惨事」「あわや大惨事」が起きないと断言することは誰にもできない。だから、不安感を煽り立てて「安心できない状態」を作り出す効果は絶大。

仮定の話が重要になるのは、「責任者出てこい」といって、叩いて頭を下げさせて首を獲る場面ではなくて、「原因の究明と対策」に他ならない。さまざまな事態を仮定・想定して、「こういう事態が想定される」「それならこういう対策を」とやる。そういうことなら仮定の話は不可欠。

ところが事故や災害には意地悪婆さんみたいなところがあるから、想定や対処をしていなかったところを突かれる。すると、新たな想定や対処ができる。ところがそうすると、また別のところで想定や対処をしていなかったところを突かれる。そういうループを積み重ねていくことで、安全性が向上したり、災害に強くなっていったりする。

でも、仮定の話に立脚して「もしも○○していたら大惨事だったのだから怪しからん、責任者は出てきて頭を下げろ」だけでは、何の解決にもならない。


そういえば。「炎上と叩きはネットの花」だけれども、その叩きをやる際にも、仮定の話に立脚する人がいる。

つまり、誰かを叩くのに「誰某はこういう発言をしていたから怪しからん」「誰某の、この発言はこういう問題がある」といって叩くのならまだしも、「この問題について誰某ならこういうに違いない」と仮定の話を持ち出した上で、それを論拠にして叩く。それだと仮定の話だから「何でもあり」になってしまう。

「誰某ならこういうに違いない」と予測・推測・仮定するぐらいのことは誰でもやる。でも、それも程度問題で、仮定の話をいつの間にか確定した論拠として扱うようになったり、仮定の話なのをいいことに何でも大惨事に発展させたりするのはどうかと。

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