Opinion : 安保法制、議論は尽くしてる ? (2015/7/20)
 

といっても、「安保法制が成立するのが気に入らない」という意味ではなくて、字面通りの意味。

集団的自衛権の話でも、あるいは安保法制の話でも、個別に提示した「具体的事例」の話はよく聞くけれど、肝心要の根底の部分の議論がちゃんとできているのかなあ、というところが気になったので、こういうタイトルをつけてみた次第。


自分も、何かしらの物事について説明する際には「たとえ話」を多用する人なので、安保法制や集団的自衛権について理解を求めようという場面で、何か具体的な事例を持ち出そうとするのは理解できる。

確かに、個別の具体的な話がある方が説明しやすいという考えにも理はある。ただ、それはプラスの効果もあればマイナスの効果もある。では、マイナスの効果とはどういうことか。それは、例示した内容の蓋然性が議論の対象になってしまい、本筋の議論がどこかに行ってしまう可能性がある、という問題。

例を挙げると「ホルムズ海峡の機雷掃海が云々」という話。「こういう場面も考えられるから…」といって理解を求めようとすると、反対する側は (なにせ最初から反対するという以外の結論は存在しないわけだから) 「ホルムズ海峡が機雷封鎖されるような事態は起こり得ない」「だから集団的自衛権は不要」といって反論する成り行きになり得る。

すると、機雷封鎖の蓋然性そのものに議論の焦点がずれてしまい、本題がどこかに行ってしまいかねない。それでは「議論を尽くした」ことにならない。例はあくまで例であり、それ以上のものでも、それ以下のものでもない。

無論、物理的に近ければ影響する、物理的に遠ければ影響しない、という単純な話ではない。「地球の裏側で上がった花火でも、日本の経済や安全に大きく関わってくる可能性がある」「だから、自国の周辺で花火が上がっていなければ万事 OK とはいえない」というのが実情。

その上で根幹となる話として、「世界の安全保障情勢に対して日本がどう関わっていくか」「世界の安全保障情勢の中で日本がどうやって生き残るか」という問題に行き着く。その大元のところが定まって初めて、法制度をどうするのか、兵制をどうするのか、という話ができる。

「戦争法案」というレッテル貼りにしろ、「安保法案が実現したら徴兵制が導入される」なんていう宣伝にしろ、その大元に関する議論から逃避して、ネガキャンをやっているという以上の意味はない。逆に、政府・与党の側が個別の事例に関する説明に終始しているようでは、それもまた、大元に関する議論からの逃避。

まず問うべきなのは「日本は目下の世界の中でどう生きていくか」であるはず。

そこで「自国さえ戦乱に巻き込まれなければ OK、後は知らん」とか「とにかく戦争に手を染めるのはダメ。もしも攻撃されたら大人しく死ね」という選択肢だってあるし、それをテーブルに載せることは否定しない。でも、それが多数に受け入れられるかどうかは知らない。

先月売りの「丸」で日米首脳会談について書いたとき、「双務性が求められる」という趣旨のことを書いた。なにも日米間に限らず、give と take の両方があって、初めてバランスがとれる。そのバランスをとるために日本に何ができるか、何をなすべきか、という議論は、もっとやる必要があるのでは。

もちろん、できないことはできないと主張することも必要。でも、何もしないといって通るかどうかは別の問題。


「物理的には遠隔地であっても、日本に何某かの影響を及ぼす可能性がある事案だから、日本も関与していくのだ」と意思表明して実行に移す。それはいいとしても、問題は、その手段。

たとえば、海外で発生した事態に対して軍事面での関与を図るといって自衛隊を出す。それならそれで、任務の遂行に必要な人やモノなどのリソースはちゃんと用意できているのか。用意するつもりや体制はあるのか。交戦規則を初めとする規定類の整備・見直しは必要ないのか。

任務の幅や活動領域が広がれば、以前は必要としていなかった種類のリソースが必要になるかも知れない。以前のままの規則では対応できない事態に遭遇するかも知れない。あるいは、以前のままの規則では他国との共同作戦に支障をきたすかも知れない。フォース プロテクションの必要性だって考えなければならない。

リソースや規定の整備が不十分のままで、現場の頑張りでなんとかしろ、足りぬ足りぬは工夫が足りぬ、という調子でやっていたのでは、いつかきっと、無理が積もり積もって破綻する。それが懸念されるところだし、そうならないためにどうするのか、という議論だってちゃんとやっていただきたい。

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