Opinion : 大事件や大災害との向き合い方 (2016/3/14)
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「3 月 11 日に卒業祝い給食は非常識 ? 吉川の中学校で賛否、市教委は困惑」 (埼玉新聞) なんていうニュースがあったそうだ。
たまたま今年「3 年生の卒業を祝う最後の給食の日」が 3 月 11 日になったという話で、悪意があったわけではなくて単なる偶然。そこまで目くじらを立てなくてもと思うのだけど。それに、世の中には 3 月 11 日が誕生日の人や結婚記念日の人だっているだろうに。
3 月 10 日だと「東京大空襲」、3 月 11 日だと「東日本大震災」など、毎年のように「風化させない」「忘れない」「語り継げ」というニュースが流れるのは毎度の恒例。ただ、それを当事者がいうのと報道機関がいうのとでは、どうもニュアンスが違うような気がする。
もちろん、戦争でも災害でも事件でも、それで亡くなった方、あるいは亡くなった方の身内や友人にとっては、それはもう忘れようとしても忘れられるもんじゃない。だから、そこから「忘れないで」という声が出るのは分かる。
ただし一方で、時間が痛みを和らげてくれる一面もあるように思える。いつまでも同じレベルで痛みを感じ続けていたら、それを乗り越えて先に進むことができない。だから、当事者がいうならともかく、第三者が毎年のように蒸し返すことは、却って痛みをほじくり出すことにならないか、なんてことも思った。
もっとも、この辺の話は人それぞれだし、状況次第のところもあるから、万人に通用する「公式」みたいなのはなさそう。「忘れたくない」と思う人もいれば「忘れてしまいたい」と思う人もいるだろう。
といったところで、冒頭のニュースはどうなんだろう。震災直後に「自粛」ムードを煽り立てたのと同じ臭いがする。震災直後の自粛ムードのおかげで、飲食店は客足が遠のき、観光地は人がいなくなり、景気がますます悪くなった。
そういえば。東日本大震災から 1 ヶ月と経っていなかった 4 月上旬に、南九州まで乗りつぶしに出掛けた。そしたら、往路に羽田から宮崎まで乗った日本航空の E170 は、定員が 80 名にも満たない小型機なのに、その狭い機内はガラガラ。たぶん、搭乗率は二〜三割ぐらいだったと思う。
このガラガラぶりが、自粛ムードだけに起因するのか、7 時台に出る早朝のフライトだったからなのか、その他の要因に拠るのかは判断しがたい。けれどこの時期、「遊びの旅行に出るなんてトンでもない」という自粛ムードみたいなのがあったのは確か。そんなに盛り下げてどうする。
被災地が旅行や祝い事どころじゃないというなら分かるけれども、それ以外のところまで縮こまって景気を盛り下げて、それでいったい誰が喜ぶというのか。そういう困った話だけは、ちゃっかり風化させて忘れているんじゃないか。
そもそも、以前と比べれば扱いが小さくなった大災害はすでに幾つもある。細かくネタを拾っていけば、毎日のように何か事件や災害が起きて、人が亡くなっている。それをいちいち「○○の日だから自粛しろ」なんていっていたら、みんな「自粛しないといけない日」になってしまう。
でも、実際には「3.11」をいいたてる人はいても、もう「1.17」をいいたてる人はあまりいない。先に書いた「時間が痛みを〜」は、そういう形でも現れている。
個人のレベルで、自分の意思や考えに基づいて「今日は大人しくしていよう」というのは自由。向き合い方は人それぞれだから。でも、それを錦の御旗みたいにして他人にまで押し売りするな、とはいいたい。
正直いって、3 月 11 日に卒業祝いの給食を出すことよりも、よほど被災者を愚弄していると思うのは別の種類の人だ。「人の住めない不毛の大地になった福島県」というイメージに固執したり、そういうイメージを振りまくことに精力を傾けたりしている人のことだ。
そういえば。別件でたまたま調べ物をしていて、太平洋セメントの熊谷工場について調べていたら、こんなところにまでノイズを撒き散らしている人がいた。目が点になったとはこのことだ。
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もっとも、反対に、これ見よがしに「私は被災者のことを思っていますアピール」「私は被災者に寄り添っていますアピール」をするのも、これまたひっかかりを覚えることがある。なんていうかこう、立ち位置に関係なく、もっと肩の力を抜いてフツーに接することはできないのかと。
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