Opinion : 隣の芝生が青く見えた場合、隣家はすべて素敵なのか (2016/4/11)
 

大学や研究機関にいる研究者が中国を訪れて、「あちらの研究者は研究に専念できる環境にいて羨ましい」という感想を口にすることがあるらしい。それとはベクトルが違う話ではあるけれど、軍事航空の分野で「まがりなりにも自前で戦闘機を開発している点は評価すべきだし侮れない」という意見もある。

日本で、本来の研究以外の雑事に忙殺されていたり、研究費を獲得しようとして「どうして一番にならないといけないのか、二番手でもいいじゃないか」とか「そんなの税金の無駄遣い、福祉に回すべき」とかいうことをいわれれば、ちゃんと資金を獲得できて、雑事に忙殺されずに済む環境が羨ましく見えるのは当然。

戦闘機の件にしてもしかりで、たぶんそこには「FSX の怨念」もある。

一方で、「中国はこんなところがダメ」とか「中国のパクリ」とかいう話をあげつらう意見もある。

どちらか一方だけ見ていると、たぶんそれが真実に見えてしまうのだろうけれど、実際にはどちらも真実… というか、一面の真理ではあるんじゃなかろうか。


ただ、「研究に専念できる」「必要な資金が適切に供給される」のは、それが国家の (中国の場合、共産党の、か ?) 目的に適っている場合に限られるんじゃなかろうか。国家が目指している方向性に合うからこそ、リソースをつぎ込んで発破をかける。

裏を返せば、国家が目指している方向性に合わない研究、あるいは国家にとっての利益につながらないような研究で、同じように「研究に専念できて資金が潤沢に供給される」のかどうか。そこのところは見極めてみる必要があるんじゃないかと。

研究者に限らず何でもそうだろうけど、自分が置かれている目下の環境に不満があるときに、その不満の元が少ない、あるいは存在しない環境が他所の会社・組織・国などに存在すれば、それは当然ながら羨ましく見える。

ただ、そのミクロ的な意味での「羨ましく見える」が、マクロ的な意味での「羨ましく見える」に変質してしまうと危険じゃないかと思う。たとえば「中国の研究者は充実した環境に置かれている」が「中国は何でも素晴らしい」に変質するのはどうなのか、ということ。

なんて書くと「そんなことは起こらないだろう」という反論はあるかも知れない。でも、第一次世界大戦の後でドイツに駐在した日本の軍人が、ドイツが何でも素晴らしく見えるようになってしまってドイツ贔屓に」なんて類の話もある。

なるほど、敗戦国における戦勝国の軍人は相対的に立場が強いから、いい思いをすることはありそう。となると、太平洋戦争が終わった後で日本に駐留していた聯合国の軍人は、どうだったんだろうか。


「一事が万事」なんてことをいうけれども、それが常にあらゆる場面で通用する訳じゃないでしょ、というのが落としどころかと。

特定のポジション、特定の分野について、他所の国とか会社とか家庭の方が羨ましく見える、という類の話はたくさんあると思われる。でも、それが一般化というか、全般化して、他所の国とか会社とか家庭の方が なんでも 素晴らしくて完全無欠、となっちゃうのは危険じゃないかなあということ。

たとえばの話、その「隣の芝生がなんとやら」が昂じて転職なり転籍なりしたら、その後で「こんなハズじゃなかった」なんてことになりはしないかと。「いいところもある、よくないところもある」と心得た上で、プラスとマイナスを天秤にかけてトレード スタディをやらないと、ろくなことにならない。

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