Opinion : エセ科学・ニセ科学に関する徒然 (2016/5/9)
 

具体的な名前を挙げるのは差し控えるけれど、「エセ科学」「ニセ科学」の類がいろいろある。関連商品が売り出されることもあれば、なにかしらの言説を広めようという形を取ることもある。

この手のやつはモグラ叩きみたいなもので、叩いても叩いても別のところから新たなネタで頭を突き出してくるので、際限がない。結局、叩く方が叩き疲れて先に根負けしてしまいそうになる。

にしても。「いかにもそれらしいことを吹聴して、ひと儲け」といったあたりが根っこの動機にありそうだけれど、どうしてこう、次から次へと「エセ科学」「ニセ科学」の類が出てくるのか。そして、それにひっかかる人がいるのか。ひっかかる人がいる (= 需要がある) から、それを供給する輩が現れるわけで。


サンプルをかき集めて統計を取ってみたわけではないけれど、「エセ科学」「ニセ科学」の類の多くは、なにかしらの形で「健康」に関わっているように見受けられる。この印象が正しければ、「健康でありたい」「長生きしたい」という願望につけ込む形で「エセ科学」「ニセ科学」の類が跳梁跋扈する、という推測が導き出される。

そのバリエーションで「美しくありたい」というのもありそう。ただし、これが通用するのは人口のおおむね半分ぐらいのはず。いわゆる男の娘までカウントすべきかどうかは知らない。

自分が長期… に分類されるかどうか知らないけど、とにかく 3 ヶ月ばかり入院させられたときの経験を顧みると。病気をしているときには、それこそもう「この病気が治るのであれば、もう藁でもなんでも縋りたい」という心境になる。

そこにつけ込んで怪しい宗教などが入り込もうとする場面があるのは、なんとなく理解できる。倫理的にはどうかと思うが、怪しい宗教を広めるためのマーケティングのやり方としてはうまい。

そして「予防は治療に勝る」という考え方を適用すると、「○○は健康に良い」という類の言説は人の心にストンと入り込みやすいといえる。誰だって、病気になってから治療に苦労するよりも、病気にならずに済む方がいいと思っている。

ただ、そこで純然たる怪しい宗教になって、たとえば「朝昼晩に○○を拝めば健康でいられる」とか「健康でいたければ△△を買え」とかいう類のやり方を使うと、さすがにこれは怪しまれそうだし、警戒もされよう。

そこで「エセ科学」や「ニセ科学」の出番となる。ただし、そこはやはり「エセ」や「ニセ」だから、データを蓄積して分析するとか、きちんと実験や検証を重ねるとかいうプロセスは要らない。科学的っぽい用語をちりばめて、もっともらしく聞こえればそれでよし。

そこでさらに「大学教授」みたいな、いかにも権威のありそうな肩書きの持ち主を引っ張り出してきて、都合のいいことをしゃべらせれば盤石である。世の中、肩書きや権威に弱い人は大勢いる。新聞やテレビだって、コメントをとりに行くときには権威のありそうな人のところに行くことが多い。(ときには、自分みたいに権威もなにもあったもんじゃない人のところにも来るけど)

純然たる怪しい宗教であれば、周囲の人間が「そんなことをやっても、効果がないから止めておけ」と説得しやすい。ところが「ニセ科学」「エセ科学」の類になると、なまじ科学的っぽく装っているだけに、「でも、これこれこういう根拠がある」と言い返す余地を作ってしまう。

そして、説得する側が当該分野の専門家ならともかく、そうでなければ「う、うーん」となって舌鋒が鈍る。かくして、「ニセ科学」「エセ科学」信者の勝ちである。


ところが興味深いことに、ここまで書いてきたのとは別口の話として「人工的なモノよりも自然由来のモノの方が正しい」という主張をする人がいる。よくあるのは「人工放射能」と「天然放射能」というやつだけど、天然なら OK で人工的だとダメな放射能なんてありゃしない。

一見したところ、「いかにも科学的であるかのように装う、ニセ科学やエセ科学の信者」と「天然信者・自然信者」とはコンフリクトしそうに見える。でも実際には、同じ人がどちらも信じそうでもある。

もしも実際にそうだった場合、実は科学的なのかどうかはあまり関係なくて、「自分が見たい・聞きたい・欲しいと思っている物事に、もっともらしい論拠のようなものがくっついていれば、もう何でもあり」「そういう需要があれば、当然ながら相手が求めているものを供給して、儲けたり名を売ったりする輩が出る」という身も蓋もないところに落ち着くのかも知れない。さて、真相やいかに。

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