Opinion : 心配ばかりしていてもいいことなし (2016/7/4)
 

他の話に押し出されて後回しにされていた件を、やっとこさ。

2016/6/17 に小樽で、麻生太郎副総理兼財務相が「90 になって老後が心配とか、わけのわからないことを言っている人がテレビに出ていたけど、いつまで生きているつもりだよと思いながら見ていた」と発言した由。この後、発言切り取りによる叩き報道が出るお約束の展開になったけれど、それは措いておくとして。

元発言の趣旨は何だったのかというと、「国内にある 1,700 兆円を超える個人金融資産について触れつつ、おカネは使わなければ意味はないと指摘したのが本題」とのこと。ごもっとも。

「カネは天下の回りもの」なんてことをいう。天下の回りもののために借金して、自分の首が回らなくなってしまったのでは本末転倒だけど、だからといって貯め込んでばかりでは景気が回らない。

もちろん、貯蓄ゼロでもそれはそれで不安がある。自分みたいに、いきなり数ヶ月も病院にぶち込まれた事例もある。そんなこともあろうかと思って いくらかのストックは用意していたから助かったけど。


自分はもうすぐ 50 代に突入するから、平均寿命からすると三分の二を過ぎたあたり。おかげさまで、赤字にはならずに済んでいるけれど、毎月のインカムはジェットコースターのように上がったり下がったりする。だから、前途に何の不安もないかといえば、そんなことはない。

それゆえ、経済的に余裕があるときにストックを増やすぐらいのことはする。でも、自分に残された時間がどれだけあるかは分からない。世間一般の平均寿命がいくつだとかいってみても、それは世間一般の平均で、自分のことじゃないのだから。

だから、先の心配ばかりして不安がっていても、いいことは何もない。今を楽しむこと、今を大事にすることも重要。すでに一度ならず「生命の危機」に近い事態を経験しているから、なおのこと、そう思うのかも (ある種の開き直りですな)。

これが 70 代・80 代になったら、(少なくとも平均値からすれば) 残された時間はその分だけ減っている計算になる。そこで先の心配ばかりしていてどうする、というのは麻生氏のいう通りだと思う。要は、貯めることと使うことのバランスが大事、という当たり前の話。

もっとも、不安「感」というやつは理屈では解消できない。筋論からいえば、「老後の不安を感じなくて済むような制度・政策を整備すれば」という話になるけれど、「ここまでやれば大丈夫」という明確な閾値はないし、最善の努力をしたところで、不安がる人は絶対になくならない。

それに、新聞・テレビ・週刊誌は「安心できます」というより「不安です」と煽る方が商売になるから、どうしてもそちらに走りがち。それに、肯定的なことを書くより否定的なことを書く方が「権力の監視になる」と思っていそう。

野党にしても似たり寄ったりで、「与党の政策はなっていない」「福祉を大切にする我が党に一票を」とやる誘惑に駆られるのは毎度のこと。だから、これまた「安心です」「不安はありません」とはいわない。それをいったら自己否定になりかねないから。

そうやって「高齢者を大切に」という話が出てくると、今度は「若年層をもっと大事にしろ」「高齢者ばかり優遇するな」という話が出てきて世代間闘争になる。でも、いずれは立場が逆になるのだから、世代間対立を煽ったり焚きつけたりするのは悪手だと思う。それに、それをやっても誰も幸せにならない。

いろいろ書き連ねてみたら、「不安感の沼」×「叩いた方が商売になる沼」×「節約は美徳の沼 (浪費は悪の沼ともいう)」に「うまくいってる人をやっかむ沼」を加えた四連コンボに歯止めがかからなくなって、結果的に「みんな揃って地獄に堕ちよう」とでもいうべきスパイラルにつながってるように思えてきた。


煎じ詰めると、これは「不安感との向き合い方」の問題なのかも知れない。心配をし始めたら際限がないけれど、それをいいだすと家から一歩も外に出られなくなる。だってそうでしょう。「外に出た途端にクルマが突っ込んできたらどうしよう」なんて考え始めたら、ねえ。

そうやって不安感を増幅させて、自分で自分を苛ませてみてもいい結果になりはしない。むしろ、そこで「なるようになる」「後で後悔しないように、今を大事に・一生懸命に」と開き直った方が勝ち。

そもそも、いくら「節約は美徳」といってケチケチして貯め込んだところで、墓の下までは持って行けないんですよ ?

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