Opinion : いわゆるミニマリストの話を聞いて感じたモヤモヤ (2016/8/22)
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うちは比較的頻繁に「アレも要らない、これも要らない」と不要品処分をやっているせいか、親元を離れて 30 年以上経つ割にはモノが少ない部類に属すると思う。もちろん書籍・雑誌とコンピュータとカメラは例外である。
あるお姉様が拙宅を訪れた際に「殺風景だなあ」といわれたことがあるけれど、それでも相応にモノはある。飾り気がないだけである。
なんてことをいきなり書き始めたのは、先日、某新聞の Web 版か何かで「必要最低限のモノしか持たないミニマリスト」とやらの記事を見かけたから。そういえば、しばらく前には「断捨離ブーム」なんていうのもあったような。
そもそも、ミニマリストがニュース種になるのは、それが珍しいから。誰もが同じような暮らしをしていれば、当たり前のことだからニュース種にならない。そして、多くの人にとっては「よくやるなあ、と思うけれど、自分はそこまでできない」というのが正直な反応ではなかろうか。
それでいいと思う。「要らないモノまで大量に抱え込むのは非合理的」という考え方は分かる。でも、程度問題である。
「モノを持たない主義」に限ったことではないけれど、何事にも、極限まで行かないと気が済まないエクストリームな過激派 (といういい方が良くなければ、急進派) は出てくる。ほどほどのところで現実と折り合いをつけるということができない。
でもって、そういう人が往々にして、いちばん声がデカイし目立つ。自分がそれをやるのは個人の自由だから好きにすればいいと思うけれど、他人まで巻き込んで布教活動に励むなよ、とも思う。
そこのところも「モヤモヤを感じる」部分のひとつだが、実はもっと「モヤモヤを感じる」部分がある。
「電気を極限まで使わない生活」(これも確か同じ某新聞がフィーチャーしていたやつだ) にも通じることだけど、自分が持たないということは、本来なら自分の負担になるはずの物事を周囲に押しつけているだけ、なんてことになっていないかと。
手近な話だと、「本は自分で買う代わりに図書館に行って読む」というスタイル。もちろん、図書館には図書館としての存在価値があるわけで、たとえばすでに店頭から消えてしまった絶版本が図書館にならある、というのはありそうな話。
だから、いま現在の借り出し実績だけに基づいて蔵書を取捨選択するなんていうのは、図書館のレーゾン デートルを否定する愚行。
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あと、普通なら個人のレベルで買えるもんじゃない本を収蔵・提供するのも、図書館ならではの機能。個人的な話だとジェーン年鑑がそれで、こればかりは国会図書館の世話にならざるを得ない。あと、技報とか業界向け専門誌の類もしかり。
ただ、「図書館に行けばある」ことが「自分で本を買って読む」ことを否定する理由になるのか。読みたい本を買って手元に置いておいて、いつでも読める状態にしておきたい、という欲求だってあるだろうに。「手元にモノを置くことを全否定」するエクストリームな人にとっては、そういう欲求そのものがくだらない煩悩に映るんだろうか。
それに、「手元になくても他所から調達してくればいい」という考え方には、危なっかしさが残る。災害に備えた備蓄を引き合いに出す指摘があったけれど、それだけではない。
先に引き合いに出した図書館の本だって、ちょいといかれた指定管理者が出てくれば、それまで「ずっとある」と思っていた本をあっさり処分してしまうかも知れない。他の誰かから借りてきたり共有していたりするモノがあった場合にしても、状況が変わったり、ブツが壊れたりする可能性は常にある。
結局のところ、なにかしら「ローカルに置いておかないとまずい」「ローカルに置いておかないと不安」なものはあるわけで、そこまで全否定する宗教的エクストリーム ミニマリストがいたら、それは弊害の方が大きい。
ICT 分野でも、オンライン サービスに依存していたら「ある日突然、サービス終了」なんてことはままある。だから、自分はデータもアプリケーションもローカルで確保しておかないと不安な人である。
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