Opinion : 鉄道がもたらす心理的安心感 (2016/12/5)
 

前回、「"鉄道もない僻地" になることへの本能的嫌悪感」という話を取り上げた。

なにも北海道に限らず、赤字のレールをまくろうとすると、「生命線」だとか「地域の発展に不可欠」だとかいう声が湧き起こるのはお約束で、なにも今に始まったことじゃない。30 年以上前にも同じような話はあった (いや、もっと前でも同じか)。

1980 年代の廃止論議では、地元自治体が人を動員して「サクラ乗車」をやらかして輸送密度の数字に下駄を履かせようとした事例もあった。しかし昨今ではさすがに、そこまでの事例はない様子。

それはともかく、今回のお題は「どうして鉄道だとこういう話になるのか」。


何事も、誰かがすでに手に入れているものを奪おうとすると反発されるのは、ある種のお約束。ただ、実際に利用・活用しているものを奪おうとして反発されるなら分かるが、現実問題として閑古鳥が鳴いているローカル線を廃止しようとしたときにも、これまた反発される。

もちろん、「不便だから乗らない」という言い分にも理はある。自分が全線乗りつぶしを企てたときにも、運転本数が少なすぎるとか、走っていても時間帯が悪すぎるとかいう理由で、スケジュール作成に難渋した路線はいくつもあった。

もちろん、「不便だから乗らない」と「乗らないから間引かざるを得ない」の間には鶏と卵の関係みたいなところがあり、どちらかが一方的に悪いとはいいきれない部分がある。とどのつまり、「他の選択肢が現実的になると、不便なものはあっさり捨てられる」ということなのだろうけれど。

そんな鉄道でも「なくなるのは嫌だ」と思う。単に、ある種の既得権だから、とかいうだけの理由ではなさそうである。

ひとつ考えたのは、「鉄道は文明の象徴、開発の象徴である」という理由。これを遡ると明治時代にまで行き着くだろうし、ことに北海道では、こういう考え方が根強くあっても不思議はなさそう。

ただ、それとは別にもうひとつ、個人的に考えた話があって、それが本題。

鉄道の特徴として、目に見える形で「線」のインフラが存在する点が挙げられる。だから、駅からどこかに向けて線路が延びていれば、それは「どこかとつながってる感」を与えてくれる。

対して、空港や港湾は「点」である。目の前の空港や港湾と、他の空港や港湾を結ぶ「線」は、目には見えない。そういう意味で、「つながってる感」は鉄道より希薄になるかも知れない。

じゃあ道路は道なのか。ちがう、どうなのか。これも「線」のインフラだが、鉄道と決定的に違うところがひとつある。

鉄道にはダイヤというものがあって、毎日、輸送障害でもなければ同じ時間に同じように列車が走る。道路の場合、そうはならない。いつ、どこからどこに向けて誰がどれだけ走るかは「相手任せ」で、ダイヤも何もない。いや、バスにはダイヤも時刻表もあるが、安定度では鉄道に見劣りする。

つまり「線のインフラがあることに起因する、どこかとつながってる感」、それと「ダイヤに合わせてキチンと走ることに起因する安心感」が相まって、「あって当たり前の空気のような存在」と受け止められやすいんじゃないか。

と、そんなことを考えた。「あって当たり前のもの」で、かつ「つながってる感」「安心感」をもたらすものだから、それがなくなることへの心理的抵抗感が強まるんじゃないのかと。


誰かが別のところで、すでに同じような指摘をしているかも知れない。そんなにユニークな発想をしたというわけでもなかろうし。
と、ここまで書いたら偶然にも先を越されたわけだけれど (なんっつーオチだ)。

上のような話を考えた背景のひとつには、「玉音放送の後も列車は走っていた」の話があったのかも知れない。

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