Opinion : 誰がためにそれをやる (2017/1/16)
 

武器開発の世界に demonstration という言葉が頻出する。といっても、完成した武器を持って街中を練り歩くプロセスが設定されているわけではなくて、「実証試験」と訳すと正しい意味になる。

つまり、カスタマー (またはポテンシャル カスタマー) に対して「能書き通りに機能します」「能書き通りに機能する目処が立ちました」ということを実証してみせるためのイベント、という位置付け。

それによって計画の進捗を見せて、納得してもらうとか安心してもらうとか、そういう意味で重要なイベントだといえる。


でも、市井の人間が demonstration といった場合、街中でやる「デモ行進」を思い浮かべるのが普通だと思われる。好き好んで見に行くものではないけれど、何回か、デモ行進をやっている現場に遭遇したことがある。

言論の自由が保障されているのだから、デモ行進を行うのは自由である。ただ、道路交通を露骨に阻害する状況になっていると「あのなあ」と思うけれど、それはまた別の問題。当事者が「道路交通を阻害するほどの価値があるデモだ」と思っているのなら、それはいかがなものかと思うが。

ただ。
多くの人が見えるところでデモ行進をするのは、自分らの主張を聞いてもらいたいからだ… というなら分かる。でも、主張を聞いてもらいたいからデモ行進をするのか、デモ行進をしたいからデモ行進をするのか、よく分からなくなることもある。

よくいう「運動の自己目的化」と同じデンで、デモ更新をするということ自体に満足しちゃって、内輪の盛り上がりだけで終わっちゃってないのかなあ、という話。本人がジョークのつもりでも、はたから見るとまるでジョークになっていない事例があるのと似ている。

以前にも書いた記憶があるけれど、要するに自分で自分のことを客観視できていない。これをしたらどう見られるか、どういう反応が返ってくるか、どうすれば受け入れられるか・支持を拡げられるか、という視点がない。

世間にアピールするため、社会のためにデモをやるというよりも、自分が満足するためのデモになっちゃってないか。という話になる。

よくよく考えると、新たな製品・サービスでも武器開発でも、「ニーズがあるから作ったのか、それとも自分が作りたいから作ったのか」とツッコミを入れたくなる場面がときどきある。

もっとも、自著も含めて「自分が欲しいものを作ったら、結果として当たった」という事例はあるけれど、必ずそうなるわけでもない。基本的には「必要とされているのかどうか」という視点は欠かせない。

右も左も、なにかしらの「活動家」をするのに、いかにしてアピールするか、受け入れてもらうか、とかいう視点が欠如した事例が多すぎません ? なんてことを改めて思った次第。

その一方で、「自分の正しい主張を展開するためなら、何をやっても許される」と思っているのだからタチが悪い。電車の車内に掲出されている広告の上から、勝手に無関係の内容のステッカーを貼り付けるのなんか典型例だけど、ただの社会の迷惑である。


そういえば。「反安倍政権デモ」がセンター試験とかち合った件を論難する意見をいろいろ見かけた。騒々しいデモ更新を試験会場の真ん前でやられたら、そりゃ非難されても仕方ない。でも、試験会場のすぐ近くでなければ、いささか筋の悪い物言いではないかとも思える。

田舎の静かな場所にある試験会場ならともかく、都心の騒々しい場所にある試験会場だったら、もともと周囲はそれなりにやかましい。だから、そこに加わったデモ行進がどれほど迷惑なのかは、デモ行進が発する音響の度合による。

騒音計で測定することはできても、それが試験にもたらした影響を定量的な形で測定するのは、無理な相談。だから、影響の有無で口角泡を飛ばしあっても永遠にケリはつかない。「他の日にできなかったのか」「配慮した方が」という以上のことは、いえないのでは。

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