Opinion : 学校で教え込んで、どこまで染められるか (2017/3/27)
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「歴史は繰り返す」というけれど、「またかよ」というのが正直なところ。例の、道徳教科書をめぐる検定に関するあれやこれや。それと森友学園だっけ ? の一件。
いつもいっているように、「学校教育を通じて、幼少の頃から自分らの思想でもって染め上げたい」と思っているのは上下左右を問わない話で、そのこと自体を批判する資格は誰にもないと思う。
「怪しからん」といっている報道機関や野党などの人間にしても、ベクトルが違うだけで、自分達が信奉する思想や正義を子供達に教え込みたい、と思っているところは、おそらく同じ。それを表立って認めることは、おそらくないだろうけれど。
今回の場合、たまたま「国のやり方が自分らの好みに合わないから怪しからん」となっているから批判的な発言や報道につながっているけれども、ベクトルの方向が違っていたらどうなっただろう。
たとえば、「道徳教育を学校で教え込んで、本当に身につくのか」という趣旨のコメントを引っ張ってきて載せている新聞社があった模様。でも、「平和教育を学校で教え込んで本当に身につくのか」なんてことは (たぶん) 書きはしないだろうし、むしろ絶賛しそう。
「平和教育」でなくても、「反原発教育」でも何でもいいけれど。手段に文句をつけているように見えて、実は内容が気に入らないというのが本筋でしょ。自分らが信奉する「正義」に合致する内容なら、同じ手段でもオーケー、というのはありがちな話。
かと思えば、反対側では「大学で軍事に関する教育をやるべき」という主張をする人もいるけれど、これとて根っこのところは同じ。
でも、幼少〜大学生の頃に学校で教えたから定着する、あるいは理解が深まる、とは限らない。下手をすると、学校で教え込まれたこと、あるいはその手法に対する反発で、後になって真逆の方向にすっ飛んでいく。
学校に限らず家庭でも同じで、親が「ああしろ、こうしろ」といった通りに育つとは限らない。もちろん、そうなる場合もあるだろうけれど、一方では、意図せざる方向に行ってしまうこともある。
だいたい、「子供の頃に教え込んだ通りの大人に育って、それがそのまま続く」が幻想に過ぎないことは、太平洋戦争に負けた途端にコロリと変節したマスコミ関係者、あるいは教科書に墨を塗らせて「平和教育熱心」に変節した学校の先生が、他の誰よりも明確に立証しているんじゃないか。
そういえば、うちの両親はそういう意味で、比較的フリーダムだった部類に属すると思う。ところが、たまたま父親が買い集めていた鉄道書や戦史書や鉄道誌の類に対して、子供が勝手に興味を持ってあれこれ読み始めた。
そしてとうとう、こういう人間ができあがってしまった。
ただ、勝手に興味を持ってあれこれ読み始めて… というプロセスが成立したのは、自発的に興味を持ったから。これが学校の授業だったら、おそらく同じことにはならなかったと思われる。
先日に書いた「スポーツ嫌い」の話もそうだけれど、「一律に授業で教え込まれて、試験で評価されて、点数や成績をつけられる」となった途端に、面白いはずのものが面白くなくなるのはよくある話。
道徳の授業で試験をやって点数をつける、なんてことになったら、却って逆効果になりそうだなぁ。そもそも点数なんてつけられるのかという問題はあるけど。
そういう意味では「プログラムミング教育の必修化」にも、ちょっと不安がある。自分が書いたコードが実際に動いたときの感動は知ってもらいたいと思うけれど、それをどこまで実現できるのかなぁ、と。
裏を返せば、動かなかったときにはガックリ来るし、動かない原因、思った通りに動いてくれない原因を追及するところでは根気と論理思考が要る。それをうまいことフォローしないと、却ってプログラミング嫌いが増えかねない。
これの場合、行き着くところは人材の問題なのだろうけれど。
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