Opinion : 気配りという名の潤滑油 (2017/7/3)
 

去年、アメリカに行ったときに「ああ、いいなあ」と思ったことがひとつあった。

たとえば、コンビニのレジで会計をするとき。先客が会計を済ませて次の人の順番になったときでも、誰も待っていないときでも、とりあえず第一声は "Good morning !"。

あ、もちろんこれは朝から午前中の話で、午後や夕方になれば挨拶は変わるわけだけど。ともあれ、この挨拶ひとつで雰囲気が良くなるなあ、と思った (元の雰囲気が悪い訳じゃないが)。

そんな、ネイティブスピーカーみたいに流暢に会話ができるわけではないけれど、とりあえず挨拶ひとつで雰囲気が和むと、その後のやりとりも気持ち良く進むような気がする。ただムスッとしているよりは。


まあ、「郷に入りてはなんとやら」だし、日本でいきなり同じことをやっても相手が戸惑ってしまうだろう。でも、だからといってムスッとしている理由もなかろうし、殊更に居丈高になる必要もない。

ときどき (?)、いわゆる「お店の人」に対してやたらと居丈高な態度、高圧的な態度に出る人がいるらしい。「こっちが客なんだから」? そりゃまあ、そうかも知れないけれど、それって違うんじゃないのかなあ。

こちらが対価を支払ってサービスを受ける立場にいるのだとしても。相手に無用な負担をかけないとか、雰囲気を良くするとか。そういう気配りがちょっとあるだけでも、結果として気持ち良く過ごせて、お互いに幸せなんじゃないのかなあ ?

とはいうものの、自分は総体的に「鈍」な部分もあるので、勘違いだったり、「小さな親切・大きなお世話」だったり、ということもあり得る。それは回を重ねて学習して、適切な落としどころを探すしかないわけだけど。

その、互いにちょっと気配りしたり配慮したり譲り合ったりすれば済むところ、いちいち「平等ガー」「公平ガー」「差別ガー」を連呼したり、「法律で (義務付けられている | 義務付けろー)」とやって。それで皆が幸せになるんだろうか。

そういうことばかり繰り返していると、世の中を過剰にギスギス・トゲトゲさせたり、有形無形の社会的コストを増やしたりするんじゃないかと。そう思えてならない。

無論、中には「自分のことだけで手一杯で」という人もいるだろうから、万人に同じような気配りを要求するのは筋違い。でも、「その気になればできるのに、わざとやらない」となると、「何をそんなに突っ張ってるんだろう」と思ってしまう。

誤解のないように書き添えておくと、法律や規則やマニュアルを無視して個人の裁量・気配りで解決しろといっているわけではない。法律や規則やマニュアルというのは、相応の背景事情があって定められているもので、特に安全に関わるものはそう。それは守らないといけない。

ただ、何でも法律や規則やマニュアルで定めろ、というのもまた違うと思う。そんなことをやっていたら際限がなくなる。その場の判断や気配りや折衝で解決して、それで問題なく進むのなら、それで OK。そういう話は少なくないんじゃないの ? とはいいたい。


あと、何かリクエストを出すにしても、こちらの要求がフルに叶えられるとは限らない。別に相手が意地悪しているわけではなくて、物理的制約なんかがあってできない、ということもあり得るわけだから。

そうなると、過去に何度か書いたことがある (ような気がする)「落としどころを探る」という話が大事になってくる。これだってひとつの気配りじゃないかと思う。100% は実現できなくても、50% とか 70% は実現してくれたわけだからどうもありがとう、とかなんとか。

あるいは「やれ」と迫るのではなくて「こうしてくれた方がうまく行くと思うので」とかなんか。実のところ、言い方ひとつで受け止められ方はずいぶん変わるもの。潤滑油を入れずにエンジンを回そうとしたって、焼き付くだけじゃないの (←機械工学科的表現)。

「なにがなんでも自分の要求が 100% 叶えられないと納得しない・おさまらない」という類の人って、たとえば仕事の上での交渉事をちゃんとまとめられるんだろうか。ビジネスでも外交でも、そんな調子で臨んだら、まとまるはずの話も壊れるんじゃないだろか。

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