Opinion : 被写体への敬意 (2018/6/11)
 

先日、小田急江ノ島線の大和駅で、夜の「ホームウェイ」運用に入っていた LSE のバルブ撮影をやろうとして駅員さんと悶着を起こした輩がいたと聞いた。

これに限らず、似たような話はいろいろ。以前から「罵声大会」で有名な大宮駅では、新幹線上りホームの下り端に御立派な柵が建ち、時刻表の表紙を飾ったこともある撮影場所がおじゃんになった。

ここ、何かあると危険なぐらい人が群がっていた場所なので、こうなっても致し方ない部分はある。レンズが細いミラーレス機を持ち込めば、柵の隙間を抜けるかも知れないけど。と、それが本題ではなくて。


とかなんとかやっていたら、今度は写真コンテストの入選作品で「わざと鳥を飛び立たせて傑作をものにした」という話が流れてきて、唖然とした。普通、そういうのは「やらせ」というのではないのか。

ありのままの情景の中で貴重なチャンスに巡り会い、それをものにした結果として賞をもらった、というならいい。あるいは、チャンスが巡ってくるまで辛抱強く待ち続けた結果として貴重なショットをものにした。これもいい。

でも、「鳥が飛び立たなくて面白くないので、声や光で飛び立たせた」とあっては、被写体を愚弄している。それが賞をもらった後で、堂々とネタばらしをしてしまうあたり、理解しがたいものを感じたけれど。

だってそうでしょう。後ろめたいことをした、してはいけないことをした、という自覚が全然ないからこそ、それを公言できるわけだから。

以前に「V 写真 (この言葉は大嫌いなんだが) を撮ろうとして見境がつかなくなる撮り鉄」の話を書いたけれども、他所の分野も似たようなものなのだった。

特に自然が相手になると、被写体が必ずしもこちらの思い通りに動いてくれるとは限らない。すると、演出というか仕掛けというかやらせというか、とにかく何かしたくなるということなんだろうか。

これはもう、「写真を撮られると魂を吸い取られる」ならぬ「写真を撮ろうとして良心を吸い取られる」という話ではないかと。

(追記 : そもそも、あのコメントが送られてきた時点で、主催者側はなんとも思わなかったのだろうか ? だとしたら、主催者側も相当にいかれていると思う)

そういえば、食べ物の写真を撮るのが目的で、撮った後はちゃんと食べずに終わってしまうという話もあるらしい。そこで「世界には飢えて苦しんでいる人もいるんだぞ」と噛みつく人がいそうだし、それはそれで正論だけれども、ちょっと観点を変えると…

ここまで列挙してきた話のすべてに共通するのは、「いい写真を撮ること、評価される写真を撮ることだけが至上の目的と化して、被写体に対する尊重や敬意が忘れ去られている」ということじゃないだろうか。

つまり、「この被写体が好きだから、魅力を引き出そうとして、工夫して写真を撮る」じゃない。「この被写体で、評価される写真を撮りたい、お手本と同じ写真を自分も撮りたい」。

してみると、被写体は「入賞」とか「いいね !」とか「拡散」を獲得するための手段、あるいは高揚感を得るための手段でしかないんじゃないの、ということになる。「でしかない」が言い過ぎなら、「〜手段がメイン」でもいい。


と考えると、いわゆる葬式鉄の心理も見えてくるのかも知れない。「今まさに消え去ろうとするものを記録しようとする、"祭り" の高揚感」が欲しいだけなんじゃないの ? ということ。

それであれば、土壇場まで動かないことも理解できる。普段着の姿のままでは "祭り" の高揚感がないから。もっとも実際のところは、他の "ネタ" を追いかけることを優先してしまい、土壇場にならないと気が向かないだけかも知れないけど。

一昨年の 3 月に終了した「はまなす」も、1 月あたりはまだ静かなものだった。函館で付け替えた DD51 を撮ってたのは自分ひとり。3 月に入ったら、どんな騒ぎになってたかと思うと、もうね。

現実問題として、平素は「国鉄型至上主義」なのに、たとえば E351 が引退するとなったら慌てて撮りに行っている人なんか見ると、なんかモヤモヤする。「引退間際の車両なら何でもいいんかい」って。

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