Opinion : ベースがあっての、人間の感覚 (2018/11/19)
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よく、物理化学などの法則や実績値よりも人間の感覚の方が大事、という主張をする人がいる。その延長線上に、「安全より安心」という主張があるのかもしれない。
しかし実際のところ、そんなに人間の感覚ってアテになるものなんだろうか。いささか乱暴な反例ではあるけれど、人間の感覚の方が機械よりもアテになるなら、空間識失調で飛行機が墜ちることなんて無かろうに。
それはいささか身近でない話なので、もうちょっと身近な例。
線路脇に陣取って列車の走り写真を撮るときに、編成全体をきれいにフレームに収めたい、という状況を設定する。
すると当然、編成長 (これは事前に分かっているものとする) がフレーム内のどこからどこまでになるか、を考えなければならない。手持ちならその場で修正が効くけれど、三脚を立てるとなると話は別。
電化区間なら電化柱を参考にして設営できる。多少の増減はあるものの、基本的には電化柱ワンスパンで 2 両分か、それよりちょっと多いぐらい、と考えればそんなに外さない。
その点、電化柱がない非電化区間の方が難しい。それで何度か失敗したことがある。たいていの場合、余裕を取り過ぎて左右がガバガバになるのだけど、まあスペース不足で切れるよりいいか。
ロングレールでなければ、レールの継目を参考にする手はある。それもやったことがあるけれど、カーブだったり線路脇に草木が生えていたりすると、編成端 (が来るはずの場所) まで見通せず、「感覚に頼る」ことになりがち。そしてたいてい余らせる。
結局、「主目標の前に予行で 1 本来てくれないかなあ」ということになるのだけど、運転本数が少ない場所だとそうも行かない。
話を変えて、もうひとつ。「スピード感」というやつ。
鉄道の機関士や運転士は速度計に頼らずに速度を読む訓練をするというけれど、訓練が要るということは裏を返せば、訓練しないと身につかないということ。それに、ただの山勘ではなくて、線路脇にある参照物、たとえば電化柱とかバラストとかいったものを参考にしているのだと思われる。
人間のスピード感が意外とアテにならないのは、新東名を走っていればよく分かる。他の高速道路のスピード感と同じ調子で走っていると、静岡県警高速隊に反則金をプレゼントするのがオチである。実際、よくパクられている人を見かけるし。
これも結局、しかるべきトレーニングの裏付けがあって、初めて成り立つ話だということになる。
それで何をいいたいのとかいえば、「人間の感覚」と称するものの多くは、実は (意識している・していないを問わず) 外部に何らかのリファレンスがあって、それに基づいて成立しているものなんじゃないの、ということ。
遠くにあるものの距離だったか、角度だったかを概算するのに、指の本数を基準にする方法を陸自の方に教わった記憶があるけれど、それだって同じ。いくら人によって体格差があるといっても、指の太さが 2 倍も 3 倍も違うわけではないから、これはなるほどと思う。
頼れるリファレンスもなければ、しかるべき訓練・学習もない状態で「人間の感覚でござい」といわれても、それはただの山勘だったり願望に過ぎなかったり、というオチになるんじゃないだろうか。
だから、何のトレーニングもリファレンスもない状態で「人間の感覚至上主義」を錦の御旗みたいに振りかざす人って、なんか胡散臭いと思ってしまう。カンとか感覚とかいうのは、鍛えられるものであって、生まれついたときから自然に備わるものではないだろうと。
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