Opinion : 聞いてもらいたければ、分かりやすい文章を (2019/2/11)
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誰がどんな主張をするにしても、それを公に向けるのであれば、「誰かに聞いて欲しい、同調して欲しい」という意図があるのだと考えられる。それなら、聞いてもらえる、同調してもらえるようなカタチにしないと、意味がなくなる。
といっても、その主張の内容の良し悪し、正誤だけで決まる話じゃない。どんなに素晴らしい主張、グウの音も出ないほどの正論であったとしても、言い方ひとつで台無しになってしまう。
つまり、読み手や聞き手の立場から考えないとダメ。
そういう観点から見ると「最悪、最低の見本」みたいな Web 記事を、先日に目にした。「読んだ」とは書かない。なぜなら、読み手の「読む気」を削ごうとしているとしか思えないような書き方だったから。
「自分はこれこれが真実であると考える」と主張するのは個人の自由だから、好きにすればいい。でも、ただひたすら分量ばかり多いとか、構成・組み立てがなっていないとか、文章そのものに問題があるとか。そんな事情があると、内容以前の問題になってしまう。
実のところ、商業出版の世界でもときどき (?) ある話らしい。書籍や雑誌の編集部に送られてきた原稿が読むに堪えない代物で、編集者が大半をリライトする羽目になった、なんて話を聞いたことがある。
文章が読むに堪えない代物というだけでなく、「書かれている内容が本筋から外れて脇道に入り込んだきり、戻ってこない」なんて事例もある。
なんでそんな話を知っているかというと、あまりに脇道に逸れすぎていて「これでは本として出せない」ということで、自分に代打のお鉢が回ってきた経験があるから。どれとはいわないけれど、そんな経緯で世に出た自著がひとつある。
じゃあ、読み手にとって分かりやすい文章とは何か。それは、読み手の理解レベルに合った内容で、かつ、話の筋道と論理構成がちゃんとしていること。たとえば、後で出てくる話を理解するための前提は、先に書かないといけない。
当たり前のようでいて、これが意外と難しい。思いつくままに話を並べていくと、えてしてそうなる。うちで Word のアウトラインモードが欠かせないのは、その全体構成を俯瞰する手段として活用しているから。俯瞰してみて「ダメ」となったら、パッと入れ替えられる。
あと、ただ単に何でもかんでも詰め込めばよいわけではない。その文章を通じて達成したい「ゴール」に照らして、何を盛り込んで何を盛り込まないかを、明晰に判断しないといけない。
その上で、使う言葉を選ぶ必要もあるし、理解が難しい話なら例え話を活用する必要もある。ただし、そこで「面白い例え話にしよう」と張り切りすぎると、それもまた脱線して袋小路に入ってしまうので、要注意。
こう書くとキツい言い方に感じられるかも知れないけれど、「自分が主張したいこと」を大量に列挙するだけっていうのは、物事の優先順位付けができないことを露見してるようなもんじゃないだろうか。
経験値が上がってくると、自分で二つのポジションを使い分けられるようになってくる。つまり、まず「書き手」として文章を書き、次に「読み手」として文章の構成や内容を点検できるようになるのだけど。
でも、そういう意識がないままに原稿を送り出してしまうと、「最悪、最低の見本」みたいなことになる。それでは、自分の主張に賛同してもらうとかいう以前の問題。「私が考える事実はこうです」といったところで、読み手が途中で読むのを止めてしまえば「事実」は伝わらない。
ましてや、移動の途中やちょっとした空き時間にスマホの画面でササッと読むことが多い Web 記事だったら、簡潔かつ明快にまとめないと、読んでもらえない。どうしても短くまとめられなければ、回を分けるべき。
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でも、「にっくき○○をやっつけるんだ」とまなじりを吊り上げるような状況だと、落ち着いて文章の構成を考えている余裕なんてない… のか… ?
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