Opinion : 「いいことをした気分」の罪深さ (2019/6/3)
 

その昔、ホワイトバンドについて批判的なことを書いたときに「あれは『いいことをした気分』を売る商品である」と書いた。

肝心の貧困問題 (というか、途上国の借金問題か) 解決については他人に丸投げして、ムーブメントとやらを起こすことだけが目的の代物であった。そして、あれを買った人は少なくとも表面的には自腹を傷めずに、問題解決に貢献した気分を味わえる。

ただ、「自腹を切らずに、いいことをした気分だけは味わいたい」という需要はなくならないから、他にも似たような商品はいろいろ出てくる。最近でもそんな話を目にしたけれど、ここでほじくり返してリンクなんかすれば、却って宣伝になりかねないので、それは止めとく。


背景事情をよく分かっていなくて、いわば素朴な善意が原因で「いいことをした気分ビジネス」の餌食になってしまう人も、たぶん、それなりに存在するのだろうと思う。それは安直に責められないし、「いいことをした気分ビジネス」について説明すれば、あるいは理解してもらえるかも知れない。

ただ、そういう人ばかりとは限らない。中には、「いいことをした気分ビジネス」の餌食になった結果として、一種、承認欲求を満たされたような格好になってしまい、外部から間違いないしは問題点を指摘されると「なにぃ !?」といきり立ってしまうケースもありそう。

そりゃまぁ確かに、いいこととをした気分を味わっているところに「実はそれは意味がないのだ」なんていわれれば、ぶち壊しである。そこで自分の善意から何から否定されたと思ってしまい、ある種の過激な自己防衛反応 (っていうのかなぁ) に走る可能性、否定はしがたい。

「なにぃ !?」といきり立つ程度で済めばまだマシで、もっと過激な方向に走ってしまうケースだって、あるかも知れない。さらにエスカレートして、敵役となる「分かりやすい悪者」をひとつ決めて、明けても暮れても叩きまくるという展開に至るかも知れない。

念のために書いておくけれども、この場合の「分かりやすい悪者」は、本当に悪者であるとは限らない。

すると今度は、その「分かりやすい悪者」の側に擁護者が現れるようなことも起きる。叩く側が過激になれば、往々にして擁護者の側も過激な、あるいは過敏な反応をするようになる。

でもって、双方一歩も譲らずに血で血を洗う… いや、ネット上だとパケットでパケットを洗うのか… 大バトルになってしまう (ああ不毛)。自分もパソ通時代からいろいろやってきたから分かるけれど、ネットバトルは犬も食わない。

ときとして、「いいことをした気分ビジネス」あるいは「いいことをした気分を通じた承認欲求」は、そういう誰も幸せにならない不毛な結末を作ってしまうんじゃなかろか。


実のところ、「いいことをした気分を味わいたい」とか「正義の味方になった気分を味わいたい」とかいう欲求を捨てると、ずいぶんと肩の荷が下りて気分が楽になるんじゃないかと思える。

それになにも、ネット上で暴れるとか、いいことをした気分商品を買わないといけない、とかいうもんでもないでしょ。身の回りでできる、ほんの小さな親切でもいいんじゃない ? 実は、そちらの方が、回り回って世のため人のためになるんじゃないか、と思う。

身も蓋もないことを書くと。自分の身のまわりも平和にできない人が、世界を平和にできるとは思えないのだ。

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