Opinion : 己を信じるということ (2019/7/29)
 

ネット上の「相談事サイト」(っていうんだろうか。質問するのも答えるのもユーザー同士ってやつ) を見ていると、ときどき (?)「それを質問してどうする」という類の投稿を見かけることがある。

たとえば「お付き合いを始めてから抱かれるまでに、どれぐらいの期間を経るのが普通でしょうか」なんていうやつ。そんなもんは人それぞれ、誰もが納得できる決まった答えなんてあるかボケ。

…おっと、つい熱くなってしまった (なってどうする)。

学校で習ったり、それに基づいて試験を受けたりするような類の話であれば、なにかしらの「正解」は存在する。そうでないと採点ができない。もっとも、科学技術分野の話ならともかく、国語や社会になると、ときには「それがホントに正解なの ?」と思えるものもありそうだけど、それはそれとして。

それが、「学習」から「研究」に駒を進めると、そもそも正解があるのかないのか分からなくなる。というか、正解を求めるために研究をするのか。ある時点で「正解」だったものが、その後の状況の変化や新発見によって「不正解」に化けることもある。

アカデミックな話はまだしも、そうでない話になると、それこそ正解がないことだってある。常に「なんにでも正解がある」と思っていると、そういう場面に直面したときにフリーズしてしまう。冒頭で書いた話もそのひとつ、かもしれない。


そうなると、正解を追求すること自体が不毛になってしまう。とどのつまり、「自分を信じよ」ということになる。

そういえば、スティーブン クーンツの小説「デビル 500 応答せず」(原題 Flight of the Intruder) の中で、主人公のジェイク グラフトンが恋人に「俺はジェイク グラフトンを信じている」と話す場面がある。まさに「自分を信じよ」そのもの。

ただ、何の根拠もエビデンスもなしに「自分を信じよ」といっても無理があるわけで、経験・成功・失敗の積み重ねによって「自分なりの正解」が固まってきて、結果として「自分を信じている」といえるようになるんじゃないかと。

もちろん、ある場面での成功が普遍的な成功の法則とは限らず、次に同じことをやったら大失敗に終わった、なんてこともあり得るけれど、それはそれで積み重ねがひとつ増えることにはなる。

これを書く前に高速道路を走って自宅に向かっていたけれど、「前途に渋滞が発生していると分かったとき、どうすればいいか」なんていうのは、常に決まった正解がない問題のひとつ。

そのまま突っ込むか、下道に逃げるか、迂回ルートがあればそちらに逃げるか。昨日の場合には迂回ルートを使ったけれど、常にそれがあるとは限らないし、迂回ルートでも渋滞が突発する可能性だってある。結局、普遍的な正解はない。

自分が責任をとらずに済む逃げ道として「カーナビに従う」というのもあるけれど、それもなんだかなあと。カーナビにも限界はあって、ときには「ある IC で降りて、同じ IC で乗り直せ」なんていうスットコ誘導をしてくることがある。

この問題にしてもその他の問題にしても、誰もが自分なりの経験や考えに立脚して「自分なりの正解」を持っている。そういうもんじゃないだろうか。


もちろん、普遍的な正解がちゃんと存在することだってある。たとえば、「80 機」と「240 機」を比べれば、誰が見ても「240 機」の方が多いと分かる。

そこで「80 機の方が多い」なんて主張を開陳すれば、「あなた、どこで算数を習ったんですか」というオチになるし、「240 機」の方をなかったことにすれば、それはもはや虚偽の風説である。

そこで「いや、俺は自分を信じている」といったところで、ただのコントにしかならない。一応、「そういう場合もあるのだから」と念を押しておく意味で書いておいた。

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