Opinion : 手段と目的のすり替わりに関する危惧 (2020/3/9)
 

COVID-19、いわゆる新型コロナウィルス肺炎の感染防止策として、「不要不急の外出を避ける」とかいう話が出てきたり、学校が休校になったりしている。おかげで街中が閑古鳥だとか、観光地が悲鳴を上げているとかいう話が伝えられている。

そりゃまあ、「休みの日に観光地に遊びに行く」なんていったら、不要不急だと思われても仕方がない。でも、それでメシを食っている人もいるわけだから、閑古鳥が過ぎると、違う方面の被害が生じてしまう。


そもそも、何のために「外出を控える」とか「時差通勤する」とか「学校を休みにする」とかいう話になったのか。

それは感染経路からして「換気が悪くて」「人が多くて」「大声で話すような場面」がいちばんヤバいから、との話。そうすると、換気は悪くないけれど、何人もの人が近接して立っている「開店前のスーパー・ドラッグストアにおける買いだめ目的の行列」なんて、けっこうまずいような気がするのだけど。

個人的にちょっと危惧しているのは、この「どういう理由で、どういう要請が出たのか」という経緯が忘れられて、そのうち「外出を避ける」とかいう手段だけが一人歩きする事態。

つまり「外出を控えろといわれているのに、○○は外出しまくっていて怪しからん」といってバッシングするような。そういう話がきっと出てくるんじゃないかと。なにせ、理由が忘れ去られて手段が自己目的化するのは、よくある話。

太平洋戦争中に、現役の海軍軍人が「大詔奉戴日なのに、海軍の軍人がゲートルも巻かずに街中を歩いていていいのか」と国防婦人会のおばさんに文句をいわれた、なんて話があったらしい。これも、「ゲートルを巻かない奴は怪しからん」という、短絡的な手段の自己目的化、といえるのではないかと。

他所の国のことは知らないけれど、日本の社会では得てしてそういうことが起きる。学校のおかしな校則だってそうでしょ。最初は何か理由があって規則ができたんだけど、そのうち背景事情が忘れ去られてしまい、結果としてできた規則だけが残って、それを守らせることに血道を上げるようになるという。


本来の趣旨を考えれば、「換気が良好で」「人混みにならなくて」「大声でしゃべることもない」場面であれば、感染拡大のお先棒を担ぐ可能性は低いことになる。

いわゆる「ネタ」がいない、どこかのローカル線の線路脇で、一人でカメラを抱えてボケッと被写体がくるのを待っていたところで、たぶんノープロブレム。換気は良好だし (なにせ屋外だ)、人混みにならないし、しゃべる相手もいないのだから。

たぶん、飛行場の近隣でも事情は変わらない。ただし、目下の百里みたいにホットな場所になると、そこに集まる人の数と会話は増えてしまいそうだけれど。

とまあ、これは極端な例だけれども。要は「この状況下で○○することに問題はないか」と自分で判断した上で、実行するかどうか、出歩くかどうかを決める。そういう考え方が一人一人に求められるんじゃないかなあ、ということ。

背景事情抜きで、定められた結論を守ることにばかり血道を上げるのは、一種の思考停止。「自分がこうすることに問題はないか」「どうすれば問題を避けられるか」をちゃんと考えないで、安直にキーワードにだけ飛びつくと、思考停止になる。

ひょっとすると、「○○写真の決まり事」でもやっぱり、どうしてそういう決まり事ができたかという背景事情を知らずに (あるいは忘れて)、決まり事を守ったり守らせたりすることにばかり血道を上げてしまう人、案外といるんじゃなかろうか。

ただ、イベントの主催者や施設の運営主体が中止や閉鎖を決めるのは、右に倣えでも致し方ない部分がある。もしも何かあったときに、(特に報道機関による) 盛大なバッシング対象になるのは目に見えてるから、予防的に手を打とうとするのは当然の反応。

おかげで 700 系のラストランまで吹っ飛んでしまったけれど、中止を決めた側のことは責められない。

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