Opinion : 見るべきは成功事例よりも失敗事例 (2022/4/11)
|
ウクライナに侵攻したロシア軍が、下馬評とは裏腹に苦戦しているように見えるとか、あれこれの「やらかし」が伝えられるとか、最近はそんな話で身辺が埋まっている感がある (実際にはそれほどでもないか)。
こういうときにありがちなのは、伝えられる成功事例に熱狂するパターン。たぶん、実在するんじゃないかと思う一例は、Bayraktar TB2 の活躍ぶりが伝えられたのを聞いて「日本はドローンの導入が遅れている !」といい出す人。その変種として、「我が国も武装 MALE UAV を導入しなければ !」といって、慌てて開発プログラムを立ち上げるパターンもあり得そう。
とりあえず、モノを買ったり組織を作ったりして、それで対策ができた気になるのは間々ある話だけれど、そういうのは往々にして裏切られる。モノを買ってくるだけでは駄目で、それを「どう使うか」が重要。なのに、そちらの視点を忘れていると、結局は有効活用できなくなってしまう。
何でも、成功事例が喧伝されるのは仕方ない部分がある。しかし、本当に着目すべきは、成功している事例よりもむしろ、失敗している事例、うまくいっていない事例じゃないだろうか。成功事例にしても、一方が成功を収めるということは、それを受けて立つ側にしてみれば失敗事例ということになるのだから、結局は失敗事例の研究という話に持って行ける。
「失敗は成功のもと」なんてことをいうけれど、現実にはどうだろう。失敗した事例よりも、成功した華々しい事例に惹かれて「うちでも同じ成功を」となってしまうことの方が多いんじゃないだろうか。
これが商品やサービスの話だと、何かが大当たりしたときに皆が後を追えば、似たような商品やサービスが乱立することになって、レッドオーシャンと化す。そこで体力勝負の安値攻勢になんぞ走ろうものなら、もう泥沼。相対的な問題だから、誰かが勝ち残るだろうけれど、それで顧客が幸せになるかどうかは別の問題。
第一、成功事例の表面的なところだけ見ていても、同じ成功をトレースできない。なぜ成功したのかの見極めが、ちゃんとできていないことには。
話を元に戻して。一方に「なぜ成功したかの見極め」が必要ならば、反対側では「なぜ失敗したのか」の見極めが必要という話。それができて、かつ、自分とこで同じ轍を踏む危険性がないかどうかの評価がきちんとできれば、同じ失敗を繰り返す可能性は下がりそう。おっと、評価するだけでなく、対策を講じないと駄目。
そういう観点からすると。モスクワが展開したさまざまな「やらかし」を、北京がどれだけ真剣に受け止めて、失敗の原因を読み取って、同じ轍を踏まないようにするにはどうすれば良いかを考えて実行しているか。日本にとって最大の問題点は、そこでは。
つまり、プーその 1 が「力による現状変更」に失敗しているのであれば、そこから得られた教訓はプーその 2 にとって最良の教科書になり得るということ。そんな教科書を献上する結果になっているプーその 1 にとっては、面白くない話かも知れないけれど。
では、その最良の教科書でプーその 2 が思い通りに花火を上げる事態を阻止しようとしたら、どうすればいいか。こちらも、プーその 1 の失敗事例を研究して、それに対してどういう対策が考えられるかを検討した上で、さらにその裏をかく対策を考えないといけなくなる。
勝ち負けは相対的な問題だから、こちらが勝つという考え方だけでなく、相手を勝たせないという考え方も成立し得る。相手を勝たせないということは、相手に成功させない or 相手に失敗させるという話。それを実現しようとしたとき、もしかすると成功事例の研究よりも失敗事例の研究の方が効くのかも知れない。
ここまでは「他人の失敗」の話だったけど、「自分の失敗」も同じ。なぜ失敗したのかを追求して、同じ失敗を繰り返さないように対策を講じないと、根本的な解決にならない。と書くだけなら簡単だけど、実際にやるのはけっこう難しい (だからやらんでいい、とはいっていない)。
それがある程度、誰にでもいえる普遍的な傾向であれば。失敗を根絶するのは難しくとも、減らすだけでも相対的な優位につながらないかしらん ?
|