Opinion : 本気で危機感を持ったときほど冷静に (2022/6/27)
 

一週間ほど前に、Twitter でこんなことを書いた

婚姻率の件にしても AED の件にしても、「そんな面倒くさいことになりそうなら、もう関わらんでおこう」と思わされるような言説がドカスカ流布することの影響、無視できないのでは。
それが多数派かどうかが問題なんじゃなくて、声がデカいか、目立つかが問題。

声がデカいと、あるいは声が目立つと、ついつい「それが多数派なんだ」と思ってしまう。しかし世の中、サイレント マジョリティという言葉もあるわけで、実は声が上がらない方が多数派ということもあり得る。

だいぶ昔に、サイレント マジョリティという言葉を意図的に誤用してお笑いネタを生み出した人がいたけれど、それはまた別の話。


たとえば、誰かに対して何かを働きかけようとした場合。いわゆる活動家の人がしばしばやるように、眦を吊り上げて喧嘩腰で大声を上げて何人もで詰め寄って取り囲んで、それでうまくいくかどうか。そりゃ、ときには圧力がうまくいって相手が折れるかも知れない。しかし、そんな様子を見ていた第三者はどう思うか。

と、これは実際に自分が、とある説明会の模様を報じたニュース番組を見て思ったこと。「こんな詰め寄り方をする人達はまともじゃないな」というのが、正直な感想であった。どこの誰のこととはいわないけれど。(ちなみに、喧嘩腰で詰め寄ったものの、自らの主張を達成できずに終わった人達でもある)

これは、過去に何回も書いている「ネット世論とリアル世論の乖離」にも通じる話で。可視化される範囲で声が大きく、目立っているからといって、実際に大きな影響力を発揮するとは限らない。喧嘩腰で迫ったからといって、それで物事が意図した通りに運ぶとは限らない。広く拡散しているように見えても、実はそれはエコー チェンバーの中に限られていた… なんていう話はあるある。

では、そもそもどうして大声を上げたり喧嘩腰になったりするのか。「もともとそういうキャラだから」が、もっともありそうな話ではある。でも、それだけかなぁと。「ギャラリーがいる現場で、"活動している" ところを見せなければ」という意気込み () が、結果として過剰にエキサイトさせる方向に働いてしまう。のかもしれない。

ことに、手段が目的化してしまい、何かの活動をして声を上げること自体が目的になってしまった場合には。当事者にそういう意識がない or 自覚がないとしても、結果としてそうなるのはよくある話。

これがリアル ワールドだと、同類が集まるとか、せいぜいマスコミを呼んで報じてもらうとかいうレベルの話だった。ところが今ではどうか。ネット上で大声を上げれば、インスタントに「多数の人に見られている現場で、雄々しく戦うワタシ」を演出できてしまう。ある種の麻薬みたいなものなんだろな。


すべてが必ずそう、というわけではないにしても、「威勢良く大声を上げてみたのはいいけれど、矛盾や虚構がバレて遁走」なんていう事案もときどき目にする。そんな事例を見ると、いくら義憤に駆られても、あっさり食いついて拡散に協力するのは危ないなと思う。

そして、そういう意識を持つ人が増えたらどうなるだろう。大声を上げても相手にされないとなれば、ますます過激な方向に走るんじゃないだろうか。後は悪いループの繰り返し。

そういう落とし穴にはまらないためにも。自分が何か本気で真剣に危機感を感じていることがあれば、そういうときこそ冷静に、エキサイトしないように注意しながら事を運ばないといけないんだろうなぁ。過激な形で大声を上げるほどに、却って目的達成から遠ざかると思うから。

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