Opinion : SDGs がらみで思ったことを少々 (2022/7/4)
 

つかみのお題は、SDF… ではなくて SDGs。SDF について個人的に感じている話については、お仕事の方であれこれ書いているので、措いておくこととして。ここで書くのは、ここしばらく広告宣伝などの分野でしばしば見かけている、SDGs の方。

といっても、プー 1 号がやらかした蛮行のせいで、SDGs にしろ CO2 排出削減問題にしろ、なんとなく失速している感はある。平素、いくら立派な理想を口にしていても、自分らの生活に直接的な悪影響が及ぶ事態が勃発すれば、そちらを優先してしまうのは無理からぬところ。

だいたい、護憲論者がよくいうような「理想のためなら死んでもいいでしょ or 理想通りに行かないなら死んだ方がマシ」みたいな論法は、そんな広く受け入れられるもんじゃない。それだからこそ「持続性」と「開発」を両立させましょう、というのが SDGs 本来の趣旨だったと理解しているのだけれど、それが結局はどうなってしまったかといえば、ねえ。


なにも SDGs に限ったことではないけれど、この手の「分かりやすい正義」は往々にして、活動家連中に食い物にされる (あえて喧嘩を売っていくスタイル)。すると何が起きるかというと、たとえば、D の部分がスルーされて S の部分だけがつまみ食いされるようなことが起きる。こうして本来の趣旨はどこかに消えてしまう。

その「つまみ食い」は、実のところ、意外なほど弊害が大きい。そこに、グランドデザインを欠いて「個別の案件ごとに部分最適化する」流れをかけ合わせると、個別の「正義の案件」ごとに個別に最適化した対応を繰り返して、全体がグダグダになる。

思うに、先日に世間を騒がせることになった電力不足の問題も、分かりやすい正義であるところの「再エネ礼賛」「自由化礼賛」など、個別の課題ごとの部分最適化をかけ合わせた結果として生じた、完全な人災なんじゃなかろうか。

そういう事態が勃発したときに、「とりあえず現場の頑張りでなんとかしてしまう。それで解決した気分になり、本質的な解決は先送り」というあたり、いかにも我が国の政官界でありがちな話ではある。

だいたい、グランドデザインを欠いて個別の正義ごとに部分最適化しているのでもなければ、電力供給の余力不足が生じているのに「注視する」だけで具体的な手を打たず、一方で「CO2 排出削減のためにもクルマの EV 化を」なんていう、矛盾の塊みたいな話が推進される事態にはならないでしょ。常識的に考えて。

個別の事例を挙げ始めると際限がないから、これぐらいにしておくとして。

「本来は善意で持ち出されたハズの正義が、活動家連中や商業主義に食い物にされる」「グランドデザインを欠いた状態で、個別の正義ごとに最適化した対応を繰り返す」「結果として全体最適がグダグダになる」という文脈で眺めると納得がいく種類の話、あちこちに転がっているんじゃないかと思える。


もっとも、活動家というのはそもそも「活動のタネを常に探し求めている」上に「シングル イシュー脳で動く」傾向が強い、というのが個人的な見方。そこにグランドデザインなんてものは存在しないし、考えてもいないと思う。

御立派な理想、お題目を掲げていても、それと現実をどう結ぶかというロードマップは作ろうとしないし、たぶん作れもしない。その一方で、世間の耳目を引きつけるような事象が何か起きると、それを自分らが掲げる活動のお題目にこじつけることには長けている。

だから、LOHAS でも SDGs でも貧困問題でもなんでもいいけれど、そのとき、そのときでトレンディ、かつ受け入れられやすそうなネタに対して、ダボハゼのように食らいつく。そして食い荒らして、食い尽くしたら次のネタを探して去って行くことの繰り返し。

それに乗せられた人はいい迷惑。ただ、「ここで、この正義に乗っておかないと、後で何をいわれるか分かったもんじゃない」「乗っておかないと、イメージダウンにつながるかも知れない」との危機感を抱く可能性も、考えないといけないのかも知れない。一方で、広告代理店が煽った可能性もあるのだろうけれど。

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