最近、アメリカで「台湾有事が切迫しているのではないか」との発言が出てきたり、日本で防衛省・自衛隊が急に (とみられがちな按配で) 継戦能力の強化だのなんだのという動きを見せたりしている。
おかげで、ようやくというべきか、遅ればせながらというべきか、一般市民レベルでも「もしかしてこれってヤバいのでは ?」という認識が出てきつつあるようにも思える。業界ウォッチャーからすれば「何を今更」感があるけれども、それを蒸し返してみても始まらない。危機感が世間一般に共有されつつあるのなら、それはそれで良いこと。
もっとも、肝心の永田町や霞ヶ関のモノの考え方が旧態依然というか、前動続行というか。意識の転換が進んでいないように見受けられるのは、極めて不安を感じさせられるところ。結局のところ、法制度を整備したり国費を動かしたりしないと話は進まないのだから、そこを司る人達の意識転換が進まないと、話が先に進まない。
アメリカみたいに「議会が国費を支出するための権限法を毎年作る」という形の方が、議会にも当事者意識が根付きそうではある。しかし、アメリカの制度をそのまま日本にいきなりポンと持ってきて、まともに機能するとも思えない。だいたい、日本にまともな国防議論ができる議員が何人おるか。
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ついでに 30 年ぐらい前の話を蒸し返してみると。
冷戦崩壊でソ聯が消滅したときに、「これで世界に愛と平和の千年王国がやってくる」と思った人が多かったようだ。実際、「平和の配当」を求める声が持ち上がり、各国とも国防費の削減や軍縮に踏み切ったわけだし。
ただし業界では、「超大国のタガが外れたから、地域紛争みたいな小規模紛争は却って増えるんじゃないか」という見立てはあった。しかし「平和の配当」を求める側からすれば、そんな見立ては邪魔である。中には「組織防衛のため」という思惑もあったかも知れないし、それを完全に否定するのは難しいにしても、実際にはどういうことになったか。
後からなら何とでもいえる種類の話ではあるけれど、実際、地域紛争やらテロ問題やらは世界の各地で続発した。結果として、それに合わせた軍備の見直しが進むことにもなった。だから結果論としては「小規模紛争は却って増える」論が正しかったのである。「平和の配当」派は認めたくない事実だろうけれど。
たまたま自分は「冷戦構造が崩壊したから世界が平和になる、なんて思うのは形を変えた冷戦思考だ」といっていた。確かどこかでこれを書いた記憶があるので、ほじくり出せば出てくると思われる。当たらない方がいいけれども当たってしまった、という類の話になる。
もっとも、「将軍たちが前回に経験した戦争に備える」のと同様に、「戦争に反対する側も前回に経験した戦争に反対する」というところがあるから、「第三次世界大戦型の事態」しか想定できなかったのも無理はない。のかもしれない。
かように、口でいうのは簡単でも、目の前の現実に合わせた意識改革というのは難しい。我が国の個人や組織は、過去に慣れ親しんできたやり方、過去に成功したやり方からの脱却がなかなかできないから、尚更。
「第三次世界大戦型の事態」しか想定できなかった… という話になると、正面から正々堂々と数的・質的優位を確保して正攻法で敵軍をぶったたけ、という発想になってしまうんだろうか。現実問題、今の西太平洋地域の状況を見ていると、そんな考え方が通用するのかどうか疑問に思う。
面白いことに、アメリカ軍という組織は、危機感を覚えるような事態に直面したり、あるいは本当にまずい目に遭ったりしたときに、外野がビックリするような自己改革能力を発揮して見せることがある。もっとも軍事組織に限らず、国全体にそういう「血筋」があるのかも知れない。
それを外から見ていると「何やってんの ?」となることもありそう。ことに米海兵隊で進行中の組織改革なんか、「えええー、どうして !?」という反応はありがち。タラワや硫黄島の件があり、「米海兵隊といえば敵前上陸部隊」という先入観があるから。
しかし実際には、米海兵隊が「敵前上陸部隊」をやっていた期間なんて、長い海兵隊の歴史からすれば短い部類。この刷り込みもまた、「前回に経験した〜」のひとつの現れかも知れない。
でも、先入観や過去の成功体験、過去に正しいとされていた公式に囚われすぎると、意識改革も組織改革も戦闘概念の改革も困難になってしまう。それがもっともクリティカルな形で問題になっているのが、今なんじゃないだろうか。
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