Opinion : 質 vs 量 の議論に関する問題提起 (2022/11/21)
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防衛装備品 (いわゆる武器) の業界では、昔から「量 vs 質」という議論がある。それを有史以来、ずっと追いかけていたら際限がないし、それをやれるだけのデータは手元にないのだけれど。ただ、1990 年代以降だけ見ると「質」派が優勢なのは確か。「量は質を補えない」と。
「ふむふむ、そうだよな」と思っていたけれども。ふと、「そもそも量と質ってストレートに同じ土俵で対比されるべき概念なのか ?」という疑問を覚えたので、備忘録代わりにちょっと書いてみようかと。
今の我が国がそうだし、たぶん太平洋戦争の頃にも同じだったと思われるけれども、「数を揃えることができないので、質的優越を追求するしかない」という議論。一見したところでは、もっともらしい話に見える。
ところで。「質」の追求とは、分かりやすいところでは技術的優越の追求となる。すると研究開発・試験・評価のレベルアップが求められる。当事者はともかく部外者だと、往々にして後のふたつが見落とされる傾向があるにしても。
一方、「量」の追求とは、装備・弾薬の類であれば大量生産であるし、あとは人的な問題もある。天然資源に乏しい国が、資源を呆れるほど消費する分野で数を確保するのは無理がある。人口が少ない国が大軍を揃えて、維持することはできない。
ただし、それだけが「量」の追求なの ? という話。手持ちの人的資源、工業生産力、原材料をいかにして最適配分するか、という問題もある。そもそも「戦略」とはそういうもの。自国が置かれた状況下で、いかにして手持ちの各種リソースを最大限に有効活用して優勢を、抑止力を確保するかという問題。
その「有効活用」には、作戦構想や各種ビジョンといったものも、当然ながら含まれる。要は「どういうゲームのルールで戦うのがもっとも有利か」という話の追求。数や質が揃っても、有効活用できるかどうかはまた別の問題。
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そういう観点から見た場合、一方で「資源が乏しい」「工業生産力が乏しい」といっているのに、他方では、数少ない技術陣に対して次から次へと新規案件や改良案件を投げて仕事を増やし、疲弊させる。「雨が降ってくるから傘を差す」論法で、場当たり式に新形や改良型の生産計画を持ち出す。パーツや弾薬などの互換性を無視して、無闇矢鱈に種類を増やす。同じ装備なのに細かい仕様違いが大量にできる。
これらはすべて最適配分に逆行しているし、数少ないリソースをさらに細かく分散して、自ら数的劣勢に拍車をかける行為でしかない。そういう状況がある一方で「数的優位はとれないから質的優位を追求するしかない」なんていわれても、「先にやることがあるんじゃね ?」としかいいようがない。
それに、いくら質的優勢を実現できたとしても、それによって量的劣勢を補うには限度がある。つまりは「質的な面だけでなく、可能な限り、数を確保する努力も要るはず」とはいいたい。それなら、手持ちのリソースをいかにして最適活用するかを真剣に考えないといけない。質の追求という部分最適化にのめり込んで、全体最適をグチャグチャにすれば、勝てる戦も勝てなくなる。
そして先に書いたように、量の確保とはリソース配分の問題でもあるから、戦略レベルでのマネージメント、管理運営をどれだけちゃんとできるかに依存する。生産基盤や原材料の入手ルートを確保することもまた、マネージメント、管理運営といいかえられるのでは。
それと比べると、質の確保はもう少し戦術レベルに寄せた話になるんじゃないか、と思える。もちろん、人材の育成や確保は戦略レベルの問題でもあるから、完全に戦術レベルの問題とはいえないにしても。
というわけで、「量の追求」はマネージメント、管理運営の比重が増すだろうから、「質の追求」と対比する概念として扱うこと自体が不適切なんじゃないの。という問題提起をしてみる。
念のために書くけれども、「質の追求がどうでもいい」という意味じゃない。ミクロ的に「質の追求」にばかりのめり込んで、「可能な限りの量の追求とリソースの最適配分」という戦略的見地を忘れないでよ、という話。
そしてもちろん、整備した人や装備やその他のあれこれを、どこでどう使うのが最適なのか、という話もあるけれど、そこまで手を広げると今回の本筋から外れるので、今回は割愛。
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