Opinion : 根源的価値 (2023/12/11)
 

(たまに例外があるものの) 基本的に初日と最終日はスルーする人なので、昨日の VSE のラストランもスルー。というのは表向きの話で、実のところ仕事がスタックしていて身動きがとれなかったのだけれど。

その VSE の引退で改めて、小田急ロマンスカーをめぐる「あんな声」や「こんな声」が噴出している様子。そうなると、オールド小田急おじさん (なんのこっちゃ) としては、何か書いてみたくなる。本欄、VSE が営業を開始した直後にも何か書いていたような気がするし。


VSE の開発に際して「連接構造の復活」が掲げられた話は有名であるし、「旅と鉄道」の別冊で VSE を取り上げたときにも書かれている。一応、SSE から GSE まで全系列、乗ったことがある身としては、「小田急ロマンスカーといえば連接車」という刷り込みは、まぁ理解できる。1957 年からずっと、なにかしらの連接車がいたわけだから。

純粋な個人的趣味の観点としては、自分は「連接車大好き人間」なのだけど、もちろんこれは SSE や NSE や LSE によって刷り込まれたところが大。あの「ダダン、ダダン」というジョイント音は連接車でないと聴けない。まあ、最近はロングレール化が進んで、聴ける場所は限られているけれども。

もうひとつは「走る喫茶室」で、こっちの方が歴史が長い。こちらも一応は経験者であったりするし、まだ手元に昔のメニューを残しているぐらい。

で、VSE の登場に際して「連接車」と「走る喫茶室」の復活が掲げられたということは、やはり「小田急ロマンスカーはこうでなくては」という意識が強い方が、社内外に多かったのだろうなと。

オールド小田急おじさんの繰り言はこれぐらいにして、ここから先が本題。

連接車にしても走る喫茶室にしても、これは「手段」。連接構造は、そもそも乗り心地の改善と曲線通過性能の向上が狙いとされているし、食べ物・飲み物のシートサービスは「移動体験の質的向上」という話になろうか。

ちなみに、今は連接車とか連接構造とかいう言葉が用いられているけれども、SE が最初に出来たときは「関節式」といっていたらしい。関節式…

つまり、SE や NSE の時代における小田急ロマンスカーの根源的価値は「日常からちょっと離れて、ちょっと贅沢な気分を味わいながら遊びに行くための快適な足」にあったんじゃないかと。この「ちょっと」がミソで、誰でも手に届くところにある非日常であり、贅沢であり。

となると、実はそういう根源的価値が今も求められているのか、求められているなら実現できているのか、実現できていないのならどうやって提供するのが最善なのか、というあたりが本質であり、そっちの話をする方が建設的ではないのかと。

たとえば、技術の進化や周辺状況の変化により、必ずしも連接構造に頼らないで優れた乗り心地を実現できるのであれば、それはそれでアリ。実際、GSE はボギー車にアクティブサスを組み合わせる手を使っている。

ただ、そこで「根源的価値」が不変であって変化は許さん、なんて言い出す人が出ると、それはそれでア。「根源的価値」だって変化するものなのだ。


「根源的価値」と「それを実現する手段」を取り違えると、「連接構造でなければ許さん」みたいな話になりがちで、それは果たして正しい対応なのか。ともすると、「スカイラインにはサーフラインが入ってないと許さん」みたいな話になってしまう。

個人的には、「熱狂的ファンが、却って製品やサービスをダメにする」と思っているけれども、その一因は、この「根源的価値」と「それを実現する手段」の取り違えにあるんじゃないかと思っていて。逆に、「まずどういう価値を提供するか」から入ったことが、レクサス LS400 が成功した理由であろうし。

「○○とはこういうものである」とか「△△は伝統だから止めるな」とか、そういうことばかりいっているのは、進化や変化の足を引っ張る結果になりがちじゃないか。という類の話は、海自の FFM でついに速力信号標がなくなったのを見たときにも思ったこと。いっちゃなんだけど、あれは昔の水雷戦隊の遺物じゃないのと思っていたから。

ぶっちゃけ「伝統」の二文字を振りかざして変化を拒むのは、いかがなものかと思うのだ。

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