Opinion : 旅情と懐古はイコールじゃない (2024/3/18)
 

北陸新幹線の延長開業が実現した。新幹線の新規開業で現場に取材に行かなかったのは、この関係の仕事をするようになってからは初めてのこと (その辺の事情については、本題から外れるので割愛)。おかげで、自宅で高みの見物を決め込んでいた。

それは別にいいのだけれど、例によって例のごとくの場外乱闘が聞こえてくる。「これまでは 1 本で行けたものが、乗り換えが必要になって…」は理解できるけれども、毎度恒例の「そんなに急がなくてもいい」とか「旅情が云々」になると、さすがに「あの」と思う次第。

それに、乗り換えの手間をいうなら「とっとと新大阪まで延長して」の方が建設的ではないかと (ダブルミーニング)。


以前から同じことを何度も書いているけれど、「急がなくてもいい」といっている人だって、いざ自分がどこかに行くことになれば、早く着く手段を選ぶ場面は少なくないのでは。仕事を筆頭にして、行った先で何か用事があって、そのために移動する場合には特に。

じゃあ、急がなくていい場面とは何かというと、「日常から離れたお出かけそのものが目的」の場合。それだったら、意図的にノンビリ移動にするのも楽しみのうち、といえるし、それは理解できる。自分もやることがあるし。

にしても、函館から旭川まで普通列車だけで移動したのは、ちと調子に乗りすぎの感はある。

その「非日常だから」という話は、たぶん、旅情云々の話にもいえること。見慣れた車両や見慣れた駅名から離れて、知らない土地のローカリティを味わう… それは確かに旅情といえる。それだからお出かけは楽しい。

実のところ、「空気感の違い」とか「空の広さ」とか、他にも挙げ始めると際限がないぐらい、知らない土地の非日常感を味わえるネタはたくさんある。だから、「昔ながらの列車の旅」にばかりこだわるのはどうなのさ。というのが個人的意見。

その「昔ながらの列車の旅」が非日常だからこそ、多少の不便でも真夏の暖房車でもネタにできる。でも、それが日常だったら我慢できないと思うよ、たぶん。(JR 西日本の 35 系客車は、その辺をうまく突いている。快適に非日常の懐古を味わえるというところで)

その「旅情」という言葉が「懐古趣味」や「現状墨守」と悪魔合体してしまうと、話がこじれる。変化を拒むための言い訳、お題目として「旅情」という言葉が使われるようになると、それはさすがに解釈というか、定義が狭すぎやしないか。

「旅情」を「懐古趣味」と結びつけることができるのは、それが非日常の利用だから。地元で日常的に利用する側の視点が抜け落ちてる… という話は前にも書いた通り。日常的に利用する都市部では便利・快適を求めるけれども、お出かけした先では昔と同じ姿を求める、となればただの身勝手。

そりゃまあ、首都圏から石北本線や釧網本線までお出かけして、そこで待っている H100 に首都圏の電車と同じような腰掛が付いていたら、非日常感も何もあったもんじゃないかも知れない。でも、それは国鉄時代だって似たようなものではなかったのか。


そういえば、旅情の話とは何の関係もないのだけれど。

北陸新幹線について「米原に引っ張って東海道新幹線に直通させろ」論は、日常的に蒸し返される。それに対して「信号保安システムが違うから」といった人がいた。ところがなぜか、それに対して反論するのに「運行管理システム」の話が持ち出されている場面を見かけて頭痛が痛くなった。まるで違う話じゃないですかそれは。

こうなるともう、反論するための反論といわれても仕方がないし、反論そのものが胡散臭く見られる原因を作ってしまう。まあ、そうやってレスバしてるところに突っ込んで行っても、メンタルを削られるだけだから放置してるけど…

実のところ、自論のために使えそうなお題目を適当に引っ張ってくるところは、現状墨守論と共通する場面があるやも知れず。

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