Opinion : 手に入らない・手に入らなくなったものほど美しく見える (2024/3/25)
|
鉄道業界では、なにか有名な車両が引退するというと、往々にして、新聞・テレビによって「○○という愛称で親しまれていた△△系という名車が引退」みたいな文脈にされてしまう。そして「そんな愛称あったか ?」と首をひねられることになりがち。
「引退する車両、これみんな名車」の法則というか、なんというか。実際にはそうとは限らず、中には迷車じゃないのという車両もいるわけだけれど、それは本題ではないので措いといて。
引退して姿を消す車両とか飛行機とか艦船とか。あるいは列車でも会社でもその他の組織でも。姿が見られなくなる、あるいは手に入れたいと渇望していたのに手に入らなかった。そういう話になると、憤懣の反動からか、「手に入らないものほど美しく見える」の法則が発動することがあるよね。というのが今回の本題。
鉄道趣味界などに燻ぶる「国鉄至上主義」にも似たものを感じている昨今。実際に国鉄時代を経験していた人と、そうでない人とで、けっこう「日本国有鉄道」という組織に対する評価は違っているんじゃないかと思うけれど。別に、国鉄のすべてが駄目だったなんて極論に走るつもりはないにしても、完全無欠だったともいえない。
でも、すでに消滅している組織だから。「死人に口なし」ではないけれども、どうとでも言えちゃう。結局のところ、都合のいい話だけつまみ食いした IF 話の水掛け論にしかならない。
もちろん、常に、必ず、そうなるわけではないのだけれど。でも、中には「明らかにそれじゃねーの」という話もある。
最近ではさすがに下火になったけれども、F-22 なんかも、それに近い存在だったんじゃないだろうか。もちろん、F-22 が駄作だなんて思ってはいない。ただ、F-22 がオベイ条項のせいで輸出不可になり、入手の目がなくなったことが、却って「F-22 を渇望する声」のアフターバーナーに火をつけたんじゃないのとは思っている。
いや、P&W のエンジンだからアフターバーナーじゃなくてオグメンタか (そこ)
|
そういえば、オーストラリアには F-111 と F-22 大好きシンクタンクがありましたな。最近はどうしてるんだろうか。
実際のところ、「○○さえあれば負け戦にはならなかった」みたいな論は無理筋であることがほとんど。他の分野でも、「未成の○○が出来さえすれば問題解決 !!」みたいな論はチョイチョイ見られるけれど、これも多分同じ。手に入らないものほど美しく見えるし、夢を貪り食ってしまう。
では、なぜ「手に入らないものほど美しく見える」のか。なんて大上段に振りかぶらなくても、答えは見える。「手に入らないからこそ妄想し放題」だから。いくらでも、都合良く考えられちゃう。しかも手に入らないものだから、「その妄想は誤りである」という現実を突きつけられずに済む。
と考えると、「到底実現できそうにない話」を売りにして信者を集める宗教団体、あるいは政党って、ムチャクチャ危険な存在なんじゃないか、という話になる。
「到底実現できそうにない話」だから、ずっとそれで商売 (?) ができるし、化けの皮が剥がれることもない。そして手に入りそうになものに対して夢を見続けて、妄想がエコー チェンバーの中で行ったり来たりして増幅して。するとえてして過激化・先鋭化する。誰のこととはいいませんけれどね。
現実に対して不満を抱いたり、危機感を抱いたりするのはよくあることで、それは別にいけないことでも何でもない。ただ、それに対して現実的に向き合うことができないと危険。物事を極度に単純化して、一撃で問題が解決できると思い始めたら危険信号。
目の前の現実に対して現実的に向き合えず、「○○さえ (実現すれば | 倒せば)、世の中の問題事は雲散霧消 !!!」みたいな、到底手に入りそうにない夢想の世界に入り込んでしまう。それは結果として、本人ばかりか周囲の人まで不幸にしかねない。
ところが面白い (面白くない) 話もあって。問題解決は地に足の着いた地道な取り組みがないと実現しないことが大半なのに、問題を作ったり、優良組織を駄目組織に突き落としたりするのはサクッと (?) できてしまうことがある。なぜだ。
|