Opinion : 無謬性・神聖性は動機付けの手段に不適 (2024/4/15)
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陸自の 32 普連が公式 Twitter アカウントで「大東亜戦争」という用語を使った件が物議を醸した。結局、当該投稿は削除となった模様。どういう意図があって、この用語を選んだのかは本人でなければ知る由もないけれども。
一般論として、ひとつの物事に対して、異なる立場から複数の呼称があるときには、どの呼称を選ぶかは選んだ当事者のモノの考え方が反映されることが多そう。今回の件が、果たしてそれに当てはまるのかどうか。
ただ、部内の学校で誰を呼んで講話をしてもらっているか、なんていう話も含めて、陸自が危なっかしい方向に走っていないか、と心配にはなった。そうでないことを願っている。
国を護るための思想は必要であるけれども、それは「我が国の歴史に誤りなし」みたいな国粋思想ではなくて、いわゆる教義、ドクトリンみたいな種類の話。これがしっかりしていないと、それはそれでまた危なっかしい。
前にも同じようなことを書いた気がするけれども、「自分が生まれ育った土地を、家族を、仲間を護りたい」という動機で任務に赴いて、それが集まることで結果として国の護りになる。そういう形の方が一般的なのではないかなあと。
アメリカの海兵隊が、仲間意識… というよりさらに濃密な、家族意識みたいなのを植え付けようとするのも、それが結果として結束を固めて、任務遂行につながるから、という考えがあるのだろうと見ている。
もっとも、それを口先だけで終わらせずに、実戦の場で「戦死者や負傷者を置き去りにしない」を実践して見せることが重要だけれども。
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対象が完全無欠・無謬でなければ護る気にならない、贔屓する気にならない。これを、以前にも使ったことがある下世話な書き方に置き換えるならば「アイドルはう○こをしない理論」。これは、物事を 1 か 0 かで単純二分することに通じる、危なっかしい考え方。
単純二分する方が分かりやすいけれども、現実問題としては「いいこともあれば悪いこともある、でも、自分はこれが大事。これがお気に入り」となるのが一般的な落としどころであるし、そうでなければやっていられない。
なんてことを書いている自分自身、たとえば F-35 についてはプラスの話を書く一方で、開発の過程で直面した不具合や困難についてもいろいろ書いてきた。ロクに調べもしないでポンコツ呼ばわりする人とは一緒にしてもらいたくない (真顔)。
だから、「国の護り」にしても、自国の無謬性・神聖性を過度に強調することが本当に効果的なのか、という疑問は持ってしかるべき。会社勤めでもたぶん同じで、自社の無謬性・神聖性を強調したところで、おそらく社員はついて来ない。
「仲間のため」とか「家族のため」とか、そういう個人レベルの小さな動機がスタート点になって、それを集めることで最終的に任務や事業の成功につなげる。実際にはそうやって物事が回っているのではなくて ? だから、前に書いたと思うけれども、「小さな成果でも正しく評価すること」が大事になる。
実のところ、「アイドルはう○こをしない理論」が危なっかしいのは、その神聖無謬の前提が崩されてしまったとき、あるいは神聖無謬の前提が虚構だったと思い知らされてしまったときに、一気に全体がガラガラと崩壊するんじゃないかというところ。つまり、その手の前提に立脚することは、堅固そうに見えて堅固じゃない。
それよりもむしろ、「自分たちはこうやって勝利者になるんだ」という具体的な考え方を確立して、それを実践できるようにすることの方が、よほど結果につながるのではないか。「熱砂の進軍」なんか読むと、ベトナム戦争の後の米陸軍は、それを実際に遂行してきたのだと読める。
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