Opinion : アンチ「昔は良かった」 (2024/6/3)
 

そもそも論として「昔は良かった」ばかり連呼するようになるのは、老化現象の現れだと思っている。それだけならまだしも、その「昔は良かった」論では往々にして、美味しそうなところだけがつまみ食いされて、美味しくなかった話は無視されがち。というか、なかったことにされる。

実のところ、「それまで当たり前のように手にしていたものが取り上げられると、人間、むやみに反発するもの」という現実がある。「昔は良かった」論でもかなりの比率で、これに該当するんじゃないかと思っている。

でも、「今あるものはずっとある」訳ではないし、「今のトレンドはずっと続く」訳でもない。


もっとも、こんなことを書いていられるのは、自分が基本的にテクノロジーヲタクで、新しがり屋の気があるから、という自覚はある。たぶん、前者は母方、後者は父方の血筋をひいている。

もっとも、それだけの話ではなくて。過去のあれやこれやの経緯や人生経験の結果として、「基本的に後ろを見ない」という方向付けができてしまった。その影響も、おそらくは存在する。

だってそうでしょう。手にできなかったもの、自分でコントロールできない領域のことを延々とグダグダ言い続けるより、いま手にしているものを、自分でコントロールできる領域のことを大事にしないと。変化は拒むよりも乗りこなさないと。

といっても当然ながら、「激変緩和」が必要な場面、慎重に変化させていった方がいいと思う場面はある、そこはまぁ匙加減のしどころ。Windows の UI の変化とどう付き合うか、なんて話は典型例かも知れない。

それに、「昔は良かった」といっても、その良し悪しの基準が絶対的なもので不変というわけではない。

たとえば当節、JR 北海道がらみで「キハ 40 は良かった、H100 なんて…」みたいな論を見かける。でも、時代を四十数年ばかり遡ると、今度は「キハ 22 は良かった、キハ 40 なんて…」といってる人が (多分) いたんじゃないだろうか。だいたい、そんなもんである。タイコンデロガ級巡洋艦だってそうよ。

そういうのを更にこじらせると、新しいものを作るのはとにかく反対、今あるものを見直すのもとにかく反対、という「現状墨守・唯我独尊」な、どこかの政党みたいなことになってしまう。

「昔は良かった論」の培養基として、いちばんありがちなのは、この「変化に対する本能的な拒絶感」であろうけれど、それだけとは限らない。
自分が気に入らない誰か or 何かを叩く材料が欲しいときも「昔は良かった」論が出る場面を見かける。そこでは特に、冒頭でも書いた「美味しいところのつまみ食い」が起きる。でも、これはもう付ける薬がないので放っておく。


自分が「お星様」になった後の話だろうから、好き放題に書いてしまうと。この先、40-50 年ぐらいして、何か新型の戦闘機や艦艇が出てきたら、きっと「F-35 や B-21 は良かった」とボヤいている人がいるんじゃないだろうか。賭けてもいい。

こういう種類の話なら、まだ笑い話で済む。でも、これが企業や国家やその他の組織における「勝てるルール」の話になると始末が悪い。「昔はこの方法で勝てたのに、どうして勝てなくなったんだ。昔は良かった」といい出すようになったら最悪。

そのとき、そのときの状況に合わせて最善の打ち手を考えていかなければならないのは当然の話。でも、それができない人がいる。そして「昔は良かった」といって八つ当たりを始める。それはさらなる没落を呼ぶだけじゃないかしらん ?

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