Opinion : 悪玉の相手は常に善玉か ? (2024/10/14)
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発端は拉致事件だったか、ガザで武力紛争が再燃してから 1 年ぐらい経った。
なにも今に始まったことではないけれども、イスラエルという国、とにかく自国の生存のためなら手段を選ばないというか、手荒なことでもやってしまうところがある。あそこまで腹をくくれるのは大したもので、我が国の政治家には多分無理。
ただ、腹をくくるにしても、ちと狼藉の度が過ぎるではないか、というのが最近の印象。まず相手に先に悪役になってもらうぐらいの狡猾さが必要であろうに、自分が先に悪役になってしまってどうする。結果として、将来的にそれが不利な方向に働くことになりはしないか。
と思うものの、だからといって、ヒズボラやハマスが善良なる平和の使者かといわれれば、そうとも思えない。ヒズボラの背後で糸を引いているイランも含めて、それはそれで味方する気にはならない。
この手の紛争に対する朝野の反応で、どうにも違和感を感じるのは、当事者を善玉と悪玉に分ける論調が、さも当たり前のように展開されること。
これがテレビの時代劇だったら、話は簡単。悪玉がいて、それを善玉がやっつける。明快である。でも、現実社会はどうなのか。
実のところ、人類史における数多の武力紛争の中には、「自分は正義の味方だと思っている悪役同士がド突き合っている」ものが多いんじゃないかと。無論、当事者は「自分は正義の味方だ」と思っている… 好き好んで「自分は悪役だ」と思う人は、普通はいない。
その極めつけがいわゆる独ソ戦で、いってみれば大悪魔同士が血で血を洗うド突き合いを展開して、何千万人もの犠牲者を出した。ヒトラーやナチスが善玉だなんて断じて思わないけれども、じゃあスターリンが善玉なのかといわれれば、そうとも思えない。
それでも昔はスターリンが一人しかいなかったけれど、今はスターリンが三人もいる。というのが最近の口癖。
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いちいち個別の事例を挙げ始めると際限がないから、ひとまずこれぐらいにしておいて。
実のところ、なにも武力紛争に限らず、その他の分野でも同様に「そんな簡単に善玉と悪玉に分けられるもんなの ?」という話は、しこたまある。むしろ、簡単に善玉と悪玉に分けようとする人こそ危険じゃないの ? といいたくなる。
物事が何でも明快に「白黒つけられる」と無邪気に信じ込んでいる人ほど、いわゆるグレーゾーン事態みたいな状況に直面したときに脳味噌がフリーズして、身動きとれなくなるんじゃないだろうか。なんてことを、ふと思った。
新聞記者がちょいちょい陥る落とし穴で、「物事をみんな強者 vs 弱者の図式で見て、そこでは弱者が常に正しい」というのがある。この「強者 vs 弱者」にしても、あるいは「善玉 vs 悪玉」にしても、そんなシンプルに切り分けられれば世話はない。
もちろん、シンプルに切り分けずに物事を考える方がしんどいし、分かりにくいし、スパッと明快にならない。「物事は明快に一刀両断」を好む人は、たぶん、そういう思考には耐えられない。そして「どっちも良くはないが、その中からマシな方を選ばなければならない」という思考も、たぶんできない。
しかし現実には、「悪玉 vs 悪玉」みたいな場面はチョイチョイあるだろうし、そういう状況とも付き合っていかないといけない。正義の味方になって、悪い奴らを断罪するという図式の方が楽だし、気持ちいいのは間違いないけれど。
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