Opinion : 暴力の正当化こそ民主主義の死 (2024/10/28)
 

いつ頃から出てきた風潮なのかは知らないけれど、(特にある特定の政治的志向を持つ方々の間では) 選挙の結果が思い通りにならないと「不正選挙」だとか「民主主義は死んだ」とかいうことを連呼する場面が見られる。

それをネットでブツブツいうだけなら「あー、はいはい。また始まったよ」で済む話ではある。別に、それを黙らせに行こうとは思わない。真に受けようとも思わないけれども。

ただ、最近になって「これはマズい」と思うのは、気に入らない政治家は力で斃していい、なんて風潮が広まって来てるんじゃないかということ。安倍元総理襲撃事件に限らず、その後にも街頭で立候補者が襲撃された、という類の事件が、一度ならず起きている。

「気に入らない相手は力ずくで排除してもいい」と本気で考えているのであれば、それこそまさに「力による現状変更」なわけで、やってることは北京やモスクワと同じになってしまう。そっちの方がはるかに、本物の民主主義の死ではないかと。


もっと始末が悪いのは、「自分が気に入らない相手なら力ずくで排除してもいい」けれども「自分が力ずくで排除されるのは駄目」という二枚舌。

前者については、さすがにそれをそのまま公言するのは具合が悪い… という自覚があるのか、犯人のバックグラウンドに話をすり替えて「こういう事情があったのだから (仕方ないのでは)」とする場面もある。

でも、それでは五・一五事件の犯人に対して「やったことは怪しからんけれども、憂国の至情を考えると云々」というのと変わらない。動機はどうあれダメなものはダメ、と言い切れなければいけない場面。動機は行為を正当化しないし、それは情状酌量という言葉の無限拡大解釈でしかないのでは。

動機は行為を正当化するなんていいだしたら、犯罪行為やテロ行為だけじゃなくて、極端な話、侵略戦争だって正当化されかねない。そうなったときに喜ぶのは誰だろう。

そういう風潮が定着してしまうだけでも大ヤバだけれど、そこにたとえば、世代間対立みたいな「内部の対立軸」が加わると。現実問題、「高齢者ばかり優遇されて、そのためにどうして自分らが犠牲を払わないといけないのか」という不満が現役世代から出て来るのは、当然といえば当然のなりゆき。

ついでに書くならば。高齢に片脚を突っ込みかけてる自分の立場から見ても、国保の保険料の数字には「あのなあ」といいたくなる。

そういう内部対立が自然発生的に、あるいは外部から誰かが焚き付けるなどして荒れて、世論が修復不可能なぐらいに割れたら… あるいは、陰謀論や極右や極左やポピュリズムにハマる人が、さらに増えたら。

そこで「動機は行為を正当化する」といって暴力の行使が正当化されるとの方便を投下すれば、それこそ本当に民主主義が死んでしまいかねない。だから、アメリカで発生した議事堂乱入事件も断固として許容されない。

しかもたぶん、そういうところで暴力の行使を煽る人は、ちゃんと自分の手は汚さないように悪知恵を使う。煽られた鉄砲玉の煽られ損になる。


そこで「これは、けっこう危険な要因ではないか」と思うのは。本当はレッキとした悪なのに、それをオブラートでくるんでしまうような言い換えが、以前からいろいろと跋扈していること。古いやつだと「援助交際」、最近のやつだと「闇バイト」が典型例か。

見るからに悪そうな話なら、乗せられる人は減るかも知れない。ところが、それをオブラートでくるんで「もっともらしいこと」に見せかけて、それで「動機は行為を正当化するから暴力の行使も許される」なんて話を仕掛けたらどうなるよ ?

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