Opinion : まず戦う組織であるのか、まずお役所であるのか (2025/8/18)
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「国家の軍事組織」であれば、すべからく「お役所」となる。これは当然の話。だってそれは、国家を形成する組織・機関のひとつなのだから。
ただ、「戦う組織がお役所として存在している」のと、「お役所が戦う組織の皮を被っている」のとでは、大佐もとい大差があるよね。という話を書いてみる。
「戦う組織がお役所として存在している」とは、「戦闘に勝つこと」を一義とした組織、といいかえていいと思う。国家が生き残り、他の方法では自国の意志を貫くことができないと判断したときに、武力でもってなんとかする。そのための組織。
だから、「武力を用いる以外の手がなくなりました、さあやります」となったときに備えて、刃を常に研いでおかなければならないし、そこで勝利するという目的を忘れてはいけない。その目的を妨げる要因があれば、平素から眼を光らせて、排除しておかないといけない。でないと「戦えない組織」になる。
ところが、「お役所が戦う組織の皮を被っている」場合には、いささか話が違ったものになってくる。表向き、「武力紛争に勝つ」という看板を掲げてはいても、実際には「役所の論理、組織の論理」が先行するようなことが起きる。
たとえば、組織の再編成が必要ではないかという議論が起きたときに、組織が縮小する事態を避けたいとか、ポストが減らされるのを避けたいとかいう理由が、国防上の理由よりも優先される。昇任や補職に際して、そのポストに相応しい人を取り立てることよりも、波風を立てない仲良し人事を優先させる。そういう類の話。
もっと酷い話になると、作戦行動を発起するタイミングを決定するのに、会計年度とか記念すべき日とかいう要素が入ってくる (あるいは、そう見えてしまう) ようなスケジューリングをする。
もちろん、抜擢人事や飛び級人事をやれば、抜かれた側は気を悪くするかも知れない。でも、それを怖れて抜擢人事や飛び級人事を封印したり、特定のポストを何年か務めないと次に上がれないように固定化したりという話になると、人事が硬直化する。
それが平時ならまだしも (いや、平時だって良くはない)、戦時にまでそんなことをやっていたら、勝てるはずの戦も勝てなくなる。その「平時のノリの人事」で、馬力が足りない、歳を食った将官が長いこと重要ポストに陣取って、それで冴えない采配をすることになったら。その結果として戦死した人達は浮かばれない。
「平時には平時の人事をするけれども、いざというときにはダイナミックな人事をやるつもりなんだ」と反論されるかも知れない。でも、平素からそれができる素地を作って、ダイナミックな人事を皆が納得できるようにしておかないと、いざというときにやろうとしてもできないってば。
業界の金言で「訓練された通りに戦え」というのがあるけれど。平時に土台を作ってないことを、有事にいきなりパッとやれるはずがないのでは。
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ただしこれ、戦時に抜擢された人が平時に戻ったときに放り出される、という話と表裏一体のところはあるかも知れない。実際、そんな事例もある。
なにも人事に限った話ではなくて、どんな分野でも同じ。「有事に装備やパーツの供給が心配だから国産しないと」というなら、有事に急速増産できる体制を整備してからいってくれと。組織・編成・戦闘コンセプト・訓練の類は硬直化・教条化させず、適宜、見直してアップデートしてくれと。
それが「戦う組織」としての務めであるし、「国民の信頼や負託に応える」ことでもあるんじゃないんですかと。
といっても実際のところ、他のお役所との兼ね合いや政治的なあれこれもあって、そう何でもかんでも理想的に進むとは限らない。とはいえ、自力で改善できることは改善しないといけないし、外部に障壁があるのなら、ちゃんと「これでは務めを果たせません」って声を上げないと。
それができなかったら、それこそ「お役所が戦う組織の皮を被っている」といわれても仕方ないと思う。その結果として、いざというときに結果を出せなかったら、国民全員が代償を払うことになってしまう。
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