Opinion : 「社会の木魚」に物申す (2001/6/11)
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「社会の木鐸」という言葉がある。Microsoft Bookshelf で調べたところ、「中国で文教の法令などを人民に示すときに鳴らしたもの」なのだそうだ。
(Copyright : Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) Shogakukan 1988/国語大辞典(新装版)小学館 1988)
この言葉、新聞社が自分のことを「社会の木鐸」と称することが多いのでおなじみだが、それではその新聞社が本当に「社会の木鐸」として機能しているかというと、どうも疑問に思える。
何のことかといえば、「小泉・田中礼賛報道」と「長野県知事礼賛報道」の件だ。
確かに、「今の政治を改革するのだ」と高らかに宣言した小泉総理の気迫は評価するし、これまでに例のない政策を次々に打ち出してくる意欲は買う。ただ、だからといって、小泉総理、あるいは田中外相のことを無条件に礼賛するのは、問題があると思う。
長野県の田中知事の場合も同じだ。少なくとも、新聞やテレビの "報道" 振りを見る限りでは、なんというか、無条件礼賛ムードで、あまりチェック・アンド・バランスが機能しているとはいいがたい。もちろん、役人出身知事が牛耳っていた長野県庁に風穴を開けた件は評価できるが、某 TBS のように「田中知事の追っかけヤマンバギャル」の特集を組むのは明らかにやりすぎだ。
<えひめ丸> 事件のときにも書いたが、とりわけ日本では、社会の「ムード」が何かできてしまうと、それに乗らないとまずいような雰囲気になりがちだ。<えひめ丸> では米海軍とワドル艦長を悪者にして、とにかく吊るし上げればよいというムードが蔓延したが、今回は「総理・外相・長野県知事の悪口をいうのは怪しからん」というムードが蔓延している。そして、そのムード作りに大きく貢献しているのが、新聞やテレビの「報道」なのだ。
もちろん、彼らを礼賛するのも自由だが、批判するのも自由でなければならない。賛成も反対も自由にできてこそ、民主主義国家だ。それを、国会で総理と向き合った民主党に対して「総理・外相をいじめるな」と抗議が殺到したとあっては、放置しておくことはできない。
過去の歴史でも、誰かが煽り立てて出来上がった「社会のムード」によって国民がひとつの方向に盲目的に突き進み、結果としてまずい結果になった事例はいろいろある。5/21 付の当コラムで取り上げた、「戦争中の提灯行列」から「戦後の軍人非難」へとコロリと変節した日本国民の無節操さは、その典型例といえる。
まあ、この手の話は日本に限った話ではないが、日本の場合はもともと「みんなと同じであること」が重要視される社会風土があるので、"世論" がひとつの方向に向かって走り出した場合に、それに対するチェック機能が働きにくい傾向が強いのではないかと思う。
特に、今のように「不景気ムード」などで国民が閉塞感にとらわれているときは、もっとも危険だ。こういうときに、民族主義を掲げ、"革新的な" 政策を打ち出して政権を奪取し、結果として国を破滅させた指導者が何人もいることは、歴史が証明している。たとえば、ヒトラーが典型例だ。
ヒトラーは「独裁者」と形容されるし、確かに政権奪取後に独裁化したとはいうものの、ヒトラーにしろナチにしろ、近年ではユーゴスラビアのミロシェビッチがそうだが、「独裁者」の多くは、元々は正当な選挙によって選ばれたのだということを忘れてはいけない。
本物のファッショは、民主主義の衣をまとってやってくる。なにも、誰かさんのように談合で生まれた指導者だと危険、というわけではないのだ。
東京都知事選で石原氏が当選したときも、その後も、「民族主義的だ」とか「放言問題が」などの石原批判は絶えない。それでも、全体的に見て過去にない改革的施策を次々に打ち出しているから、私は現行の石原都政を支持するが、あまりおかしな方向に走るようなら、次の選挙では票を投じないだろう。なにも、ムードに乗っかって「石原支持」をいっているわけではないからだ。
小泉内閣だって、事情は変わらない。革新的な政策をいろいろ打ち出してはいるが、それらはまだ打ち出しただけで、実際に何かしたわけではないし、結果が何か出たわけではない。にもかかわらず、いきなり「支持率 90%」のゾーンに突入してしまうというのは、まったく持って意味不明だ。
しつこく書くが、政治家というのは「結果を出してナンボ」の商売だ。それを、結果どころか具体的な政策を出す前から安直に支持してしまう人がたくさんいるというのは、自称「社会の木鐸」が煽り立てる「小泉礼賛ムード」あるいは「田中外相礼賛ムード」に、皆がコロリと乗せられたからではないのか。
私が日本のマスコミのことを「社会の木魚」と呼ぶのは、そうやって無責任に世論に阿り、調子に乗ってムードを煽り立てているからだ。何かイベントがあるたびに「ポ〜クポ〜クポ〜ク・チ〜ン」と鳴り物を鳴らして騒いでいるだけで、「木鐸」と称するにたる責任を果たしているとは思えないから、「社会の木魚」だというのだ。
きっと彼らは、何かきっかけがあれば簡単に、それまで自分達が煽っていたムードをひっくり返すようなことをいいだすだろう。新聞を売ったり、番組の視聴率を上げるためなら、悪魔に魂を売ることも辞さないのではないか。
新聞もテレビも営利企業だから、商売のことも考えなければいけないという事情は分からぬでもない。だから、「売り物にならないニュース」は取り上げられないし、世間の興味・関心を煽る方向で報道内容が形作られるのも、多少は致し方ない。
国営放送や国営新聞社が政権の御用報道をやるのに比べれば、それでも 65,536 倍はマシである。
ただ、私がここで文句をいっているのは、そういう事情を表に出さずに、表向きは「社会の木鐸」だの「不偏不党」だのと称している一方で、実際にはその場その場で適当にムードを煽るだけだったり、特定の政党、あるいは個人に寄りかかった報道をしているという、建前と現状の激しい乖離があるからだ。
分野は違うが、日本テレビ・読売新聞・報知新聞の野球 "報道" が、口が裂けても「公正なものである」などといえないのは周知の事実だ。他社だって似たようなもんだが。
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むしろ、どこの社も「うちはこういう主義・主張に則って紙面 (あるいは番組) をつくっています」ということを公にすればよいではないか。新聞社によって、あるいはテレビ局によって立脚する主張が異なるのだということを明確にすれば、視聴者はその中から自分の信条に合うものを選ぶこともできるし、意図的に異なる会社の報道内容を突き合わせてチェックすることもできる。
それができれば、新聞もテレビも、却って「社会の木鐸」として機能すると思うが、どんなものだろうか。
建前だけ「いい子」になられても、かえって不信感が増すだけのような気がするのだが、読者の皆さんはどう考えるだろうか ?
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