Opinion : 簡単に "市民○○" などというなかれ (2004/9/20)
 

しつこいけれども、また球界がらみのネタになってしまった。

現在、プロ野球の球団はどこも、名の通った大手企業が「親会社」となっている。その親会社、あるいは親会社から出ているオーナーがチームを好き勝手にするのが気に入らないから、「市民球団」にしようじゃないか、という論調をしばしば目にする。口でいうのは簡単だけれど、それがどんなに大変なことか、考えたことがあるのかと訊いてみたい。
(追記 : 後で気付いたが、広島カープは例外だった。ついつい、昔の「広島東洋カープ」を思い出してしまったもので… 失礼 !)


大企業が親会社になっているのが気に入らないから市民球団化する、ということは、企業が球団に広告宣伝媒体としての価値を期待して金を出す、というスタイルを拒否することでもある。
以前に、拙稿「プロであるということ」の中で、

球団は自らの努力で収支を維持しなければならないことになる。そもそも「プロ野球」なのだから、球団もプロでなければならず、自立した経営ができるのが本当だ。

と書いた。もし、市民球団化することになれば、チーム運営に際して大企業からの経費補填が、少なくとも直接的には期待できないことになる (広告という形でお金を出してもらうというのはありだが)。基本的に、チームは市民自らの出資で運営しなければならないし、場合によっては経費節減のために、市民が手弁当のボランティアで、試合の運営に関わる諸業務に参加しなければならないかもしれない。

プロスポーツのチームを運営する場合、収入源としては試合の入場料やチームに付くスポンサーの広告費、それと TV 中継があれば TV の放映権料、各種グッズの販売利益、といったあたりがメインになる。もし、この中でも大きな柱になるであろう入場料収入が伸び悩むような事態になれば、地元の市民がみんなで試合を見に行って盛り上げなければならない。なにしろ「市民球団」なのだから、市民が見に行かずして誰が見に行くというのか。企業チームと違って、関係者の動員なんて期待できないのだから。

また、(本当は筋違いなのだが) 地元の自治体に人的、あるいは経済的支援を求めることになれば、それは結果として、間接的な税金投入ということになる。その原資は市民が納める税金なのだから、結果として市民の負担が増えるわけで、極端なことをいえば、「チームを支えるために増税します」といわれても文句をいえないことになる。

球団を株式会社にして、株式を市民に買ってもらう、ということをいっている人がいる。それは、市民の間に「我らがチーム」という意識を醸成するという面ではプラスに働くけれども、カネを出すなら口も出す、というのは資本主義社会の基本原理であって、「船頭が多すぎて船が山に登る」的な事態を引き起こす可能性だって考えられる。それが原因で、チーム運営に関する意見がまとまらずに迷走すれば洒落にならない。

市民球団とは「我らがチーム」であり、大企業、あるいは大企業からやってきたオーナーの思惑ひとつでチームがどうこうされる危険性が減る代わりに、経営上、あるいは運営上の問題が起きれば、それも市民一人ひとりにストレートに影響する。そこまで分かっていて「市民球団化」と主張しているのかどうか、ちょっと疑問だ。単に、「市民○○」という名称の響きの良さに惹かれているだけではないかと問うてみたい。

そういえば、共産党がなにかにつけて「大企業も応分の負担を」という美辞麗句の下で、大企業からカネをむしりとろうと主張している。それは共産主義の基本理念からすれば理に適った行動だが、まかり間違って共産党政権ができて、すべての企業を国有化する事態にでもなれば、その「応分の負担」を求める相手がいなくなってしまう。そうなると、もっとも困るのは共産党ということになってしまう。
スポーツチームの「市民球団化」と同じで、普段は大企業を悪者にしていても、その枠組みが崩れると困ってしまうというパラドックスが、ここにもある。

ちなみに、現行のプロ野球みたいにチームを企業が運営している場合でも、皆で試合を見に行くとか、試合の中継を見て TV の視聴率を上げる (= 媒体価値を上げて、放映権料の上昇に結びつくかもしれない) といった直接的支援に加えて、親会社の製品やサービスを利用するという支援の方法だってある。親会社が宣伝効果を期待して球団を保有しているのなら、それに応えるのが球団を存続させる最善の道なのだから。
(そう考えると、自分の沿線にない大阪ドームを本拠にしてしまった近鉄バファローズは、正直、まずかったと思う。親会社の本業との間で、シナジー効果が期待できない状況になってしまったのだから)

当節、そのことを逆手に取って、讀賣などを標的にして「不買運動」なんてことをいっている人がいるが、具体的な効果の程はどうだろう。不買運動が効果を発揮し過ぎれば、むしろ経済的困難を理由にして球団を手放す親会社が増えて、迷走の度が深まりはしないだろうか。単に自己満足のために不買運動をやるというのなら、「どうぞ御自由に」としかいいようがないが。


つまり、プロスポーツのチームを市民球団化するということは、例の「自己責任」の原則が、ストレートに頭上に降りかかってくる、ということでもある。
「オープンソース」にも似た部分があるが、他者からの支援を期待せずに、自分達で何かを作り出す、あるいは何かを運営するということは、それに付随して発生する出来事や責任についても自分達で引き受ける、ということと表裏一体の関係にある。都合のいい部分だけ享受して、リスクは他人に押し付けるというのでは、「市民○○」を名乗る資格なんてない。

そういうことまで分かった上で、それでも「市民球団化がいい」といえるのかどうか、胸に手を当てて考えてみた方がいいんじゃないか、と思った。

たのみこむ」という Web サイトがあるけれども、あれだって、製品ができた暁にはみんなで買います、という前提があるからこそ、メーカーに「これを作ってください」と頼み込むことができるのだ。「○○を作ってください」と頼み込むからには、それに対するリターンを実現するというコミットメントがあって当然。買うか買わないか分からないのに頼み込むのは、ただの身勝手に過ぎない。それと同じことが、「市民球団化」にもいえるのではないか。

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