Opinion : 絶対比較と相対比較とランキング依存症 (2004/10/18)
 

以前から、違和感を覚えてならないことがある。
たとえば、新型の PC や自動車が発売されたときなどに顕著だが、雑誌でも Web でも、しばしば競合製品を引き合いに出して「○○対△△」という構図に仕立て上げて記事を書くことが多い。これが、どうにも気になる。

もちろん、何か商品を買おうとした場合、同じカテゴリーに存在する複数の製品の中から比較することが多いのは事実だから、比較記事そのものにまったく意味がないとはいわない。だが、ときには「それって競合してるの ?」といいたくなるような組み合わせで「ガチンコ勝負」と称する記事を掲載しているケースもあるようだ。
実際のところ、ひとつの製品ですべてを埋め尽くすなんて不可能な相談なのだから、現実的には「適材適所」で複数の製品を併用するケースが大半だろうに、と思うのだが、いちいち対決構図を煽らないと気が済まない人がいるのだろうか。

また、さまざまな業界で「○○販売ランキング」というのが定番記事になっているが、勝手にカテゴライズした範囲内で上位・下位を競い、その結果を買い物の参考にするのだとしたら、それは何か違うだろうといいたい。洋服の流行を追うのと同じノリで、「とにかく売れ線の商品を買って、流行から外さないようにしたい」というのなら、ランキング依存型の買い物はありだが、本来なら自分の用途・要求・予算に合っているかどうかで決めるのが筋だろうに。特に、クルマやデジタル商品はそうだ。

そこで、こうした問題は「絶対的な比較か、それとも相対的な比較か」という話に収斂するのではないかと考えてみた。


自分が学校に通っていたときには無縁の話だったが、最近では、学校の成績表をつけるのに、絶対評価を取り入れるようになったらしい。相対評価では、実際の学習到達度と関係なく、必ず一定割合の生徒が「1」をつけられるという壮大な矛盾が発生するが、厳密な意味での絶対評価なら、そんなことはない。学習成果を上げたら上げただけ、数字が上がるのだからいいじゃないか、と思っていた。

ところが、実際に現場の生徒や親の間でどういうことになったかというと、「全体の中で、どの程度の位置にいるのか分からなくて不安だ」という声が上がっているというから妙な話だ。もっとも、成績というのは学習度合の評価だけでなく、高校や大学を受験する際の進路指導が関わってくるから、相対的順位が気になるという理屈なのかもしれないが、果たしてそれだけなのだろうか。

つまり、平均的日本人の DNA には、「周囲と比較した位置付け (ランキング)」を気にする考え方が刷り込まれているんじゃないだろうか、と思うわけだ。これは、冒頭で書いた「対決構図を煽りたがる」という話にも通じる話。この考え方の故に絶対的指標だけでは納得できず、実際に競合しているかどうかに関係なく、何か適当な「競合製品」を持ち出して相対的比較を行なわないと安心できない、という心理的背景があるのではなかろうか、と思ったわけ。

最近の子供も同じなのかどうか知らないが、子供が親に物をねだるときに使う殺し文句で「みんな持ってるんだもん」というのがある。特に学校に持っていく物が絡むと、親の方も「うちの子供だけ浮いてしまっては」という考えがあって、この手の殺し文句に引っかかりやすい。典型的な「周囲が気になるパターン」といえる。
これはモノの話に限らなくて、周囲の話題についていくために話題の TV 番組を見ていないと不安になる、なんていう派生パターンもある。学校だけではなくて、会社、あるいは近所の井戸端会議などでも同じかもしれない。

そして、こういう育ち方をした典型的日本人が大人になると、やはり、周囲と同じ方向に走っていないと不安になってしまう。そして、バブルの時には株式投資や不動産投資をやらないと置いてけぼりを食ったような気になり、後になってバブルのつけが回ってきたときもみんなお揃いで、一緒になって赤字や不良債権を抱える。


そういえば、最近は blog が流行っているかと思ったら、blog ランキングというものがあるそうだ。
最近、あまりにもイタくて面白い blog をいくつか、野次馬と化して定点観測しているのだが、その中には「blog ランキングに投票お願いします」と読者を拝み倒しているところがいくつもある。これも、「周囲と比較した位置付け」を気にした行動の一種なのかと思う。

正直なところ、本業の商売としてならまだしも、道楽で作っている Web サイトや blog のランキングに執着してどうするの、と思う。それも、隅の方にさりげなくランキング投票のリンクがあるならともかく、個々の記事ごとに、本文中にデカデカと「投票お願いします」と書いて投票を求めるのでは、もはやランキング依存症だ。そんなに、相対的な順番ばかり気にしてどうするのかと。
訪問者の絶対数が少なくても、固定読者を掴んで満足させている Web サイトなら、それだけで十分に価値があると思う。だが、この手の人たちは、半ば強迫的に読者を拝み倒してまでランキング上位に載らないと満足できないんだろうか ?

当サイトは、マス マーケットを最初から相手にするつもりがないせいか、絶対的なアクセスの増減なら多少は気になるものの、他所のサイトと比較したランキングには、てんで興味がない。
自著がどこかの書店の販売ランキングに顔を出せば嬉しいが、それは自分の商売、ひいては生活に直結しているから。Web の方は、このサイトに載っているコンテンツに何らかの価値を見出してくれる方がいらして、それで役に立って、喜んでいただければ良いと思っている。(もっとも、それが将来的に商売につながれば、それはそれで嬉しいけれど)


1 年ほど前に別の記事で「ムードに流されやすいお国柄」と書いたが、実はこれ、「自分の意思より周囲との比較を気にする社会」という方が正しいのかもしれない。そして、周囲からの目を気にして相対的な比較ばかりしてしまったり、独りだけ浮き上がらないように気を使ったりするわけだ。

「オレ流」でおなじみ、中日ドラゴンズの落合監督ではないけれども、「周囲の人間が何といおうが、自分が正しいと信じた道を突っ走る」という信念があれば、周囲との相対的な比較というものは、さほど意味をなさない。これは、独善的に凝り固まるという意味ではなくて、周囲の状況をうかがってばかりいて、風向きが変わるとコロリと流される傾向を戒めているものなので、誤解のなきよう。
多分、Web や blog において、ランキングなんぞに頼らずに内容で勝負できるかどうか、というのも、根源部分は同じ話なのだと思う。

極端な例を出せば井上成美ということになるのだろうが、当節、絶対的な価値基準で動ける「信念の人」が、あまりいないんじゃないかと思えてならない。

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