Opinion : 格差社会っていうけどさ (2006/4/3)
 

特に小泉政権になってから、「勝ち組 vs 負け組」だの「格差社会」だのといった言葉がメディアに登場する機会が増えたような気がする。

なるほど、これまでは「一億総中流」で、良くも悪しくも横並びという意識で暮らしていたものが、豊かな人はより豊かに、そうでない人はそれなりに (古いな、おい)、経済力などの水準に差が生じてきている傾向はあるかも知れない。
といっても、もろに階級社会をやっているヨーロッパあたりと比べれば、まだまだ。と思うのは気のせいだろうか。

そもそも、「結果の格差」よりも「機会の格差」の方が問題だろ、と思う。なぜなら、機会の格差は最初から格差を固定してしまうものだから。
結果の格差を埋めるために度の過ぎた (これ重要) 所得の再配分をやるよりも、何かにチャレンジして失敗した人のためのセーフティネット、あるいはそういった人が再起するチャンスを作ることの方が重要だし、それが「結果の格差」を多少なりとも埋めることにつながると思う。


そもそも、これまでの日本の社会に「格差がない」という認識が間違っている。あまり知られていないだけで、まるで平等とはいえないような話なんて、至るところに転がっている。

たとえば、税理士という職業がある。あれなんかは、出自によって試験を受けてたり免除されてたり、顧問先を自分で開拓してたり斡旋されてたりと、激しく格差が開いており、「格差がない」なんて口が裂けてもいえない。

よその業界でも、既存の枠組みに立脚した既得権益にしがみついて、新規参入を排除しようとする動きが生じた事例はなんぼでもある。既得権益の有無だって、立派な「格差」ではないか。役所による規制に護られて、護送船団方式の仲良し倶楽部になっていた業界が、新規参入や規制緩和に激しく抵抗するのも同様。
某地方都市に全国ネットの大手スーパーが出店しようとしたら、地元の商店関係者からものすごい抵抗と嫌がらせを受けて、店舗の規模をかなり縮小させられた、なんて話もあったと聞く。(一説によると、糞便を撒かれたとか撒かれなかったとか…)

個人レベルの話でも、特に大学進学までの過程で「機会の格差」がはっきり規定されてしまうという認識があるからこそ、多くの人が「いい大学に」と焦り、そのためのステップとして「いい高校に」「いい中学に」さらには「いい幼稚園に」と強迫観念に駆られて、「お受験」に励んでいるのではないのか。
でも、いったん「いい大学」とやらに進学してしまえば後の人生が保証されたも同然、というシステムは何か間違ってると思うから、こういう枠組みは壊した方がいい。

トム・クランシーの小説に、「世の中が公平にできている、といった者はいない」という台詞が一度ならず出てくる。事実その通りで、完全な意味での「公平」あるいは「平等」という仕組みが実現できた試しはない。それは、資本主義社会でも共産主義社会でも同じこと。どんなに「平等」を謳い文句にした制度でも、どこかで格差は生じるもの。

そうした状況を踏まえて、自分に与えられた条件の中で精一杯努力する… それは完璧な解決ではないかも知れないけれど、最良の解決ではないのかと思う。少なくとも、ロクに努力もしないで「結果の不平等」に文句をいい、分け前だけはしっかり要求するのに比べたら、はるかにいい。

前にどこかで書いたかも知れないけれど、世の中で確実に結果の平等が保証されているのは、「誰でも最後は死ぬ」ということぐらいじゃないの ?


最近はどうだか分からないけれど、第二次世界大戦の頃までは、経済的に恵まれない家庭に生まれた人は軍の学校を目指した事例が少なくなかったようだ。それはいうまでもなく、普通の学校と違って費用がかからないから。
パッと思いつくのは、日本だと井上成美、アメリカだとニミッツ。個人的に贔屓にしているスプルーアンスも、そんなに恵まれた家庭とはいえなかったらしい。(もっとも、フレッチャーみたいに比較的恵まれた家庭で育った提督もいる。そのせいでアーネスト・キングに嫌われたようだが…)

それに米軍の場合、下士官兵からの叩き上げで将官になってしまった人、あるいはウェストポイントやアナポリスの出身でなくてもトントン拍子の大昇進をやってのけた人、そんな事例が目につく。ここしばらくの統合参謀本部議長なんて、一般大学の ROTC 出身者の方が多いぐらいだ。そういう意味での機会均等という観点から見ると、米軍は世界でもトップクラスかも知れない。

某国みたいに、そもそも「貴族」でないとオフィサーになれません、という国はともかく、かつての日本やアメリカの場合、陸軍や海軍の士官学校が一種のセーフティネットとして機能していた、という見方もできる。それと同じことを現代に再現すべし、とまではいわないにしても、経済的に恵まれなくても活躍できる場所を見つけられるようにする仕組みとして、ひとつのヒントぐらいにはなるかも知れない。

どうも最近、「格差が拡大している」と称して、たまたま目立つ事例だけを無責任に非難する論調のマスコミが目立つような気がする。こういうときに、規制緩和がうまくいっている事例、格差が縮小している事例は意図的に無視される。某夕刊紙 (と、それと連動している某サイト) のように、床屋談義的憂さ晴らしのネタを提供することに専念して、そういう風潮に媚を売っている、しょうもない事例もある。

格差ができること自体に文句をつけて「結果の平等」に拘泥するよりも、結果にある程度の不平等が生じることは織り込み済みとして、それをどうフォローするか、結果よりも機会の均等をどう実現するかについて考えることの方が、ずっと建設的だと思うのだけれど。

そもそも、「勝ち組」「負け組」といった言葉を流行らせたり、あるいは「ヒルズ族」みたいな金満族をフィーチャーする一方で「格差の存在」を非難するのがおかしい。何をもって「勝ち」「負け」とするかなんて人それぞれ。大金持ちになること、ヒルズ族みたいになることばかりが成功だと思わせるあたりに、救いようのないメディア側の勘違いがあると思う。

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