Opinion : 反抗心とやらについて考えてみた (2007/4/30)
 

あちこちで 話題になった ネタにされたから御存知の方も多いと思うけれど、朝日新聞が「没後 15 年尾崎はどこへ 消えた反抗心」(リンク先は当該記事のウェブ魚拓) という、なかなか面白い (注 : 皮肉です) 記事を載せた。いわく。

シンガー・ソングライターの尾崎豊が亡くなって 25 日で 15 年を迎える。若い世代の反抗と苦悩を描き、いかに生きるべきかを探し続けた歌は、いまや教科書にも登場する。「若者たちの教祖」「10 代の代弁者」といった従来のイメージから変化が見られる一方、肝心の若者たちの心にその歌は届いているのだろうか。

はあ。

社会へのいらだちを過激につづった歌詞は教育現場にそぐわないように見えるが、意外にも「現場の教師から、自己の生き方を模索する代表例と勧められた」と教育出版の担当者は言う。
教科書の監修に携わった大阪の府立高校教諭、堀一人さん (53) は「反抗の歌と思われるが、テーマはむしろ他者との関係の中でのアイデンティティーの問題だ」と話す。

(中略)

堀さんはその少し前から、積極的に尾崎の考え方を授業で採り上げてきたが、最近は減らしている。「彼の歌に生徒たちが実感を持てなくなってきた」のが理由だ。
「学生の反応は年を追うごとに悪くなっている」と精神科医の香山リカさん (46) も言う。00 年ごろから大学の授業で「卒業」などを聴かせている。当初から「この怒りがどこから来ているか分からない」という意見はあったが、最近はきっぱりと否定的な感想が目立つという。

(中略)

学校や親への反抗、自分という存在についての不安。尾崎が歌ってきたのは、若者にとって普遍と思われるテーマだったはずなのに、嫌悪にも似た反感が生じている。

記事のトーン全体からすると、「尾崎豊の歌に共感しない若者」がお気に召さないらしい。多分、これを書いた記者自身が相当な尾崎ファンだったのだろうなあと。

でも、本当に今の中学生や高校生が反抗心の塊になって、勢い余って「盗んだバイクで走り出し」たり「窓ガラスを割って」回ったりしたら、今度は

「荒れる中高生、格差社会の歪みを投影」
「愛国心教育より先に必要なものがある」
「総理が目指していた "美しい国" とは、こういう国のことだったのだろうか」
とかなんとか記事を書くのが、当節の新聞記者ってもんじゃないだろうか (おいおい)


若い頃に、周囲の大人、あるいは社会そのものに対してよく分からない反発や怒りを覚えるのは、若気の至りというか、若さの特権というか。私ぐらいの世代だと、親の世代が学生時代に「60 年安保」でデモをやっていた人は少なくないだろうし、もうちょっと年代が下がると「親が全共闘世代」ってことになる。

今でこそすっかり保守化した私だけれども、若い頃は人並みに反抗心を持ち合わせていたものだから、中学・高校時代には、今にして思えば赤面モノのことをやらかしたような気がする。それも、人生における通過儀礼というやつ。

少しは世間というものを知って、物事をいろいろな角度から眺められるようになって、現実的なモノの見方を少しずつ覚えて、護らなければならない物事が増えてくると、「ああ、あのころは若かったなあ」となる。一本気に反発心を出して暴れることができるのは、失うモノが何もない人の特権みたいなもんだから。

そういう観点から件の朝日新聞の記事を眺めると、昔の学生みたいに政府などの権力に立ち向かっていこうとしない、「当節の若者」に対する不満が行間からのぞいている、といったら言い過ぎかな ?

ただ、「反権力」という観点からすると、2 種類あるんじゃないか、というのが今日の本題 (前置きが長いよ)。ひとつは、既存の権力をひっくり返して奪取するための反権力、もうひとつは反権力であること自体が目的と化した反権力。


まず前者について考えてみると、実はこれ、とんでもない矛盾になりかねない。

既存の権力をひっくり返して奪取するということは、自分たちが権力の座に着くということ。すると、昨日まで攻撃していた相手と同じ立場に立たされてしまう。それまでは「権力の横暴」とか「権力の腐敗」だとかを追求していればよかったのに、今度は自分達が同じ手で攻撃されるポジションになると、こりゃ大変だ。

権力の座に着いたときの心構えができていて、たとえば国政レベルの話だったら「どういう国にしたいか」という現実的な理念と実行手段を持ち合わせた人ならともかく、単に「反権力」を掲げて相手のドジを攻撃しているだけの万年野党体質だと、自分達が権力の側に回ったときに身動きが取れなくなってしまう。下手をすると、それが原因で党勢凋落、「終わりの始まり」なんてことも。

もっとも、これは世界のあちこちにある話。植民地にされた、あるいは他国に侵略された国で、逆らって独立を回復するために連携していたさまざまな派閥が、いざ独立を達成したら閣僚ポストなどをめぐる内輪もめを始めて、いつのまにやら仲間割れの空中分解、政府が政府として機能しなくなってグダグダ、なんて類の話はいくつもある。

そういう意味では、後者の「反権力であること自体が目的と化した反権力」は、実にお気楽な立場。既存の多数派や権力に対して、あれこれとネタを引っ張ってきて悪口をいっていればいい。相手のドジを拾ってきて叩くだけだから、立証責任なんてものとは無縁。自分たちが多数派、権力側に回る事態はないと見切ってしまえば、現実的な対案すら示す必要がない。責任は一切とらなくていい。

だから、たとえば「アメリカのイラク駐留は怪しからん」といって、さまざまな事件のニュースを引き合いに出して囃すことはできても、「じゃあ、どうすればいいと思ってるのさ」と訊かれた途端に逆ギレして、「どうして対案なんて出さなきゃいけないんだ」と開き直る。
そして、「アメリカがイラクから撤退していれば、事態はもっと良くなったはずだ」と、根拠は抜きで仮定を持ち出す (可能性の話だけなら何とでもいえる)。今すぐ MNF-I がイラクから撤退する事態は起こりそうにないのだから、「撤退したのに事態が良くならないじゃないか」と反撃される可能性は考えなくていい。実にいい御身分。

似たような話は、毎度恒例の反基地活動にもいえる。

彼等が本当に自衛隊、あるいは米軍の基地がなくなった方がいいと思っているのなら、どうすれば目的を達成できるのか、現実的な対応策を考えて手を打つことができるはず。そして、打った手に効果がないようなら、また別の手を考える必要がある。というか、本気で基地の撤去を求めるのであれば、それをするのが当然だろうと。

ところが現実にはどうかというと、「デモ行進」とか「人間の鎖」とか「9 条グッズ」とか、やってることは十年一日。主張している内容の妥当性や是非以前に、「本気でその主張を実現したいと思っているのか」と訊いてみたくなったりして。あまりにも現実離れしたことばかりいっているから、世間の多数派から相手にされない。そして、それが内輪で殻に閉じこもる原因になって、さらに現実離れしていく。

果たして、彼等が目指しているのは「基地のない日本」なのか、それとも「反基地活動の継続」なのか。前にも blog で同じようなことを書いた気がするけれど、基地がなくなったらいちばん困るのは反基地活動家なんじゃないの、と嫌味のひとつもいいたくなる。だって、どうみても基地の廃止に役立ちそうなことはしていないんだもの。エモーショナルで、かつマスコミ受けするイベントを、十年一日のごとくに繰り返しているだけで。

具体的に誰のこととはいわないけれど、反権力を掲げて勇ましいことばかり書きたてる行為がアクセスアップの手段になっているブロガーも、ひょっとすると存在するんじゃなかろうか。
これも、反権力であることが手段というより目的化している一例。とにかく反権力という錦の御旗の下、食いつけそうなネタを探して手当たり次第に噛みつくしかなくなるから、基礎知識がない分野に突っ込んで火だるまになることも ?


もちろん、反権力を掲げて何かやっている人、あるいは政府などの問題点を追求している人のすべてが、ここまで書いてきたようなパターンに当てはまる、といいきってしまうのは乱暴な話。自らのビジョンと現実の間のギャップを把握して、それを解決するために現実的な活動をしている人もいると思う。もちろん、そのビジョンが浮世離れした内容ではいけない。現実に即したものでないと。

その一方では、責任をとらなくても済みそうな安全圏に身を置いておいて、そこから他の人を見下すようにして、公然と反論しにくい大義名分を並べ立てて自己陶酔してる人がいて、またそういう人ばかりが目立つのも事実。反権力、反体制であることが手段ではなく目的になってしまい「権力に雄々しく立ち向かう私ってカッコイイ」みたいな勘違いをしている人は確実に存在すると思うのだけれど、どうだろう。

本物の反権力というのは、反対する相手の権力をつぶした後のことまで、ちゃんと考えて、かつ実行に移せることをいうんじゃないのかなあ ?

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