Opinion : いわゆる市民記者メディアに関する雑感 (2007/6/18)
 

なんでも、オーマイニュースが「市民みんなが記者だ」というキャッチフレーズを引っ込めるらしい。それどころか、「市民記者」という肩書も引っ込めるらしい。

はあ、そうですか。


何もオーマイニュースに限らず、janjan でも PJ ニュース (元のライブドア PJ だっけ ?) でも、以前から疑問に思っていることがある。それは、この手の「市民記者メディア」が、いったい何を目指しているのかということ。
オーマイニュースを例にとると、「誰もが記者として『ニュースの発信者』になる」というコンセプトを掲げているそうだ。いや、だからどんなニュースを発信したいのか、発信したニュースのバリューについてはどうなのか、と。

既存の新聞社や TV 局を初めとする大マスコミと、真正面からガチンコ勝負をやって「市民の意見」を強力にアピールしたいのか、それとも、大マスコミが取りこぼしてしまうようなネタを拾い集める補完的存在で行きたいのか。

韓国の場合、オーマイニュースの存在が大統領選に影響して云々、なんてことがよく語られるけれども、日本の首相は直接選挙制ではないから、市民記者メディアがひとつできた程度で情勢がガラッと変わるとは考えにくい。第一、そのオーマイニュースが影響して誕生したとかいう今の韓国大統領のことを考えると、ちと頭痛がする。

それに、市民記者と名乗るだけなら誰でもできるけれども、優れたオピニオン リーダーたる市民記者を生み出すためのハードルは果てしなく高い。それについては、5 ヶ月ばかり前、「批判・反論を許せない人々 (2007/1/8)」でも書いた。その際に、こんなことを指摘した。

日本の「市民記者メディア」がどうもパッとしない一因は、こういった書き手の脆弱性にもあるんじゃないかと思える。(中略)「市民記者」という言葉に飛びついて自説を語る機会に利用するのは個人の自由だけれど、その割には物事を論じる上での足腰がしっかりしていない人がいませんか、一方的に個人的な思い入れや感情論 *だけで* まくし立てる人がいませんか、と。

大マスコミが取り上げないような小さなニュースを拾い集めてくる、落ち穂拾いメディアを目指すのであれば、まだしも記者に求められる資質のハードルは低くなるかもしれない。それでも、それなりの眼力や筆力、それと見識は求められるだろう。では現実はどうかというと、先週にも書いたように、常識的な判断すらまともにできない記事を書く人がいて、それをそのまま載せてしまう、常識的な判断すらまともにできない編集部がいる。駄目だこりゃ。

それに、落ち穂拾いメディアを目指すのであれば、それはそれで経営的に難しくなりそう。ニッチな層にアピールする記事の集まりが、どこまで広告媒体として魅力的かというと、難しいような気がする (ただ、私は広告業界の人間ではないから、あまり詳しい話になると、よく分からない)。広告媒体としての魅力に乏しいのに、広告ベースで事業を成立させて記者にギャラまで出すとなれば、会社がつぶれかねない。

大マスコミとガチンコ勝負をやって、ゆくゆくは国家の行く末にまで影響を及ぼしてやろうと考えているのであれば、さらに質の高い書き手が必要。「名乗りを上げたら誰でもなれる」というだけで質が高い人材が集まるかというと疑問だし、ちょっとばかり研修をやっただけでも似たようなもの。知識の引き出しや見識というやつは、人生経験の中で時間をかけて涵養するものであって、ちょっと研修したぐらいで身に付くものではないから。


別に市民記者に限らず、なにがしかの報道をするのであれば、書き手の資質こそが最大の資産。大マスコミだってときどきトンチンカンな記事を書くのに、いわんや市民記者においてをや。

ひとつの考えとして、間口は広くしておいて、その中からどんどん篩にかけるシステムを作る方法がある。ただ、単にページビューだけで評価すると、トンでもないことを書いて炎上した記事でもページビューが増えてしまって、正当な評価を受けてページビューが増えた記事との区別がつかない。よくある「評価ボタン」だって、それだけに依存していいかというと疑問がある。
となれば、周囲から「これは凄い」とか「よく書いてくれた」というような称賛の声が上がり、多数のリンクを集めるような記事の書き手を、どんどん引き立ててアピールしていくしかあるまい。

といっても、優れた筆力と識見、さらに情報収集力や豊富なネタの引き出しを持った人材が馳せ参じてくれないことには、このシステムは機能しない。駄目な記事しか書けない人が 1,000 人集まっても、駄目な記事の集まりにしかならないし、相互研鑽にもならない。
いわゆる市民記者メディアが抱えている構造的な問題の核心って、この辺にあるような気がする。前にも書いたように、優れた書き手はたいてい、わざわざ「市民記者」なんぞにならないで、自分の Web や blog でやっているものだし。

そして、牽引車としてのアピール対象から漏れた人が「なんであの人ばっかり」と苦情をいいだすであろうことは、想像に難くない。その反動で、表舞台に上がれない人がウケ狙いのネタ的投稿に走ると、却って悪循環になってしまう。

さらに日本においては、「市民」という文字がくっつくと、それだけでもう、色眼鏡で見られてしまいかねない不幸な現実がある。「あそこは市民という名の活動家の巣窟だから」という先入観ができてしまえば、ますます人材が集まりにくくなる。だから、まずはこういう先入観を持たれないような工夫をしないと、いつになっても「市民記者 ≒ プロ市民記者」といわれて、それ以外の人材が逃げる。


インターネットの普及、さらに Web や blog を誰でも開設できるようになったことの最大のメリットは、それまでは情報の受け手にしかなれなかった人が、情報の発信側に回れるようになったこと。ただし、「情報を発信できる」ということと「優れた情報、あるいは貴重な情報を発信できる」ということの間には、とてつもないギャップがある。

自分もこうやって毎週のように駄文を書いているけれど、昔はもっと駄文だったから、後になって読み返してみて「(内容や考え方などが) 浅かったなあ」と思うことはよくある。それでも懲りずに書き続けて、失敗したり突っ込みを入れられたり、あるいは自己突っ込みを入れたりしつつ、ジタバタしている日々。

いわゆる市民記者だって、同じだと思うのだけれど。そしてもちろん、批判・反論に対して真正面から向き合えるだけの打たれ強さも求められるハズ。自分の blog で、安直に批判的なコメントやトラバを消しているようじゃ駄目だってば。

それに、自分が読み手の側に回って考えてみればすぐに分かることだけれども、「市民記者が書きました」というだけで、魅力的な記事になる訳じゃない。たとえば、それまで知らなかったような「へえー」な内容、あるいはモノの見方を提示してくれる記事だからこそ魅力的なわけで。だから、自分が書いたものが第三者の目から見て魅力的かどうかを点検できない人は、それだけで分が悪い。

となると、いわゆる市民記者メディアが世間向けのアピール力を手に入れるには、すでに個人の Web や blog で自己研鑽を積んで、優れた書き手として認められている人を、牽引車として引っ張り込むしかないのでは ? それも、大マスコミの記者ではついて来られないような、何か専門性の高い分野を得意としている人を。

さらに、そういう人が魅力を感じないまでも、せめて逃げ出さないような土壌を整備すること。さまざまなモノの見方を許容できる懐の深さを見せること。実は、これが最大の問題点であり、課題であるかもしれない。「市民記者メディア = いわゆる市民的なる意見」と固定してかかると、ベクトルが違うだけで既存マスコミと大して変わらないモノになってしまう。優れた論客がいても、そういう人が今の市民記者メディアに魅力を感じるだろうか。

それであれば、たとえば新聞が「社是」みたいなモノに依拠して記事を編集・掲載しているのは対照的に、右も左も上も下もひっくるめて「何でもあり」のカオスを作り出し、その中で「記事の投稿」という形で、さまざまな意見をぶつけ合えばいいじゃないかと思う。それを読んだ人がそれぞれ、自分なりの「結論」を持ってくれればいいのだし、互いに記事をぶつけ合う過程で書き手も鍛えられるだろうし。

どこの市民記者メディアにもいえることだけれど、書き手の資質にまつわる部分を疎かにして当の書き手に丸投げしていると、いつになっても全体の質が上がらないんじゃなかろうか。またそのうち、どこかの「市民記者」が世の中の大矛盾を暴いたような気になって、とんだ勘違い記事をライブして失笑を浴びても知らんぞ、ほんと。

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