Opinion : 美談をめぐる話の続き (2012/1/30)
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東北地方太平洋地震が発生してから少し後、2011/4/11 付の「自己犠牲と美談と人柱と」で、震災救援にまつわる美談の話について書いた。
たまたま先日、Twitter で「震災美談が道徳の教科書に」という話が出ていたので、そのときにふと思ったことを書いてみようと思った次第。
その Twitter の TL で話題になっていたのは確か、我が身を犠牲にして、他の人に避難を呼びかけるという話だったか、どうだったか。この辺、過去ログを漁るのがめんどくさい Twitter の欠点で、パッと見つけてくるのが難しい。検索機能を使えという説もあるけれど。
ともあれ、美談の話。この話が道徳の教科書になると聞いて違和感がある、というのが、自分が見ていた TL の基本的な流れであったけれども、それを眺めていて思ったのは、こういうこと。
「美談って往々にして、個人の勇気や使命感に責任を押しつけて、本質的な問題解決を回避する手段になっていやしないかなあ ?」
しまった。早くも話が終わってしまった。もちろん、すべての美談が上で書いたような話に該当するわけではないにしても、すべてが該当しないとも断言できないんじゃないかと。
と、これだけではなんなので、もうちょっと考察してみる。もちろん、美談の主を貶めるつもりは毛頭無くて、美談を利用しようとする側の問題として。
特に、本質的な問題解決をしなければならないようなポジションにある人、あるいは組織が殊更に美談を強調するようになったら、それはまずい兆候なのではないかと。
本来なら人手や物資や資金を投入して問題の解決を図らなければならないのに、それに付随する手間を避ける、あるいは投入できるリソースがないという問題を隠蔽するために美談を利用するという意味で。
もっとも、取り上げる場所が道徳の教科書という話になると、「自己犠牲の精神」「滅私奉公の精神」を強調したい、なんていうのもありそうな話かも知れない。
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何か具体的な例を書いてみようと思いつつ、なんだか思いつかなかったので、架空の話ということでひとつ書いてみると。
敵軍が戦車を先頭に立ててワラワラと進撃してきたけれど、こちらは戦車も対戦車兵器も不足気味。そこで某一等兵が (この階級は思いついただけで深い意味はない。為念) 手近にあった爆薬を抱いて戦闘の敵戦車に突っ込んで自爆、これがきっかけになって阻止に成功。なんて話があったときに。
そこで「我が身を犠牲にして友軍を救った某一等兵」の美談ばかりが強調されたら、これは問題あり。その背後には、対戦車装備の欠如という本質的な問題があるにもかかわらず、それを個人の武勇を讃える話にすり替えることで隠蔽してしまっているわけだから。
ここではパッと思いついたから戦場絡みの話にしたけれども、消防でも救急でも警察でもなんでも、似たような話を作ることはできそう。あるいは、創作しなくても実在するかも知れないし。
とかいってたら思いついた。「沈没しようとする船の中で、他の乗客を助けるために犠牲になった乗客」という美談が出てきた背後では、実は「船長が先頭を切って逃げ出していた」とか。あ、フィクションですよ、フィクション。
そこで、本質的な問題解決を図るのを (美談の強調によって) 意図的にサボっているのであれば、それは糾弾されて然るべき。ただし場合によっては、対処したくてもどうにもならないということもあるのが難しいところ。予算がないとか人手がないとか、そもそも本質的な解決を実現する手段がないとかいうこともあり得るわけだから。
ともあれ、「美談を強調している」=「手抜きしようとしている」と短絡するのは危険である、と書いておかないと。
つまり、「強調された美談の背後にどんな問題があるか」「それは解決可能な問題なのか」「解決するためには何が必要か」「それを阻害しているのは何か」まで目を向けないと、その短絡が生じる危険がある。
そして、実は現時点で解決可能であるにもかかわらず、美談ばかりを強調して個人の勇気に頼らせてしまい、本質的な解決を妨げているケースであれば、それは非難されても仕方ないだろうと。そういう話。
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