Opinion : わざわざ不安になりたがるのは何故だろう ? (2012/4/30)
 

しばらく前に、「不安商法」の話を書いた (当該記事)。他人の不安感を煽って商売につなげるなんてゲス野郎もいいところだと思うけれど、そういう需要があるからこそ、供給する者が現れるのも確か。

では、なんだってわざわざ不安情報を求める需要が発生するのか。それが謎。反対運動そのものが目当ての活動家諸氏ならいざ知らず、活動家でも何でもない普通の人が、必要以上に怖がってピリピリしているのが、以前から不思議で仕方がなかった。


毎度恒例の放射能騒ぎに対して、「飛行機に乗って飛んでいる方が、よほど多くの放射線を浴びている」というツッコミがある。そういえば自分も先日、羽田から福岡まで飛行機に乗って飛んだ。それも窓際の席で (笑)。

航空機に乗ったときの被爆の話が広まった場合、今度は「エアラインのパイロットや客室乗務員、航空自衛隊などのパイロットと接触すると放射能が来る」とデマを流すアホが現れたり、「飛行機に乗らなければならないときには、窓側の席ではなく中心部の席にする方が安全」とかいう話を垂れ流す人が現れたりしそうで、笑えない。

という与太はともかく、不安になる必要がない話でも針小棒大に騒いで、わざわざ不安のタネを求めているとしか思えない行動を取る人がいるのは確か。そこで思ったのは、「自分の心の安息、心の平安を求めるが故に、不安のタネを求めているのではないか」ということ。

なんて書くと、文面そのものは矛盾の塊。では、どうしてそういう話になるのかというと、不安のタネを求めて、それに対して何らかの行動をとることが目的になるから。

そうすることで結果的に「不安に対してアクション (笑) を起こしている自分」「不安に関する情報を的確に認識している自分」という、一種の安心感やプライドを手に入れられるのではないか、という推測をしてみた次第。

だから、そこでネタになる不安のタネは広く知られたもので、かつ、自分が対応行動を起こせるものである必要がある。誰も知らない危険ネタ、あるいは自分ではどうにもならないレベルのネタではアクションを起こせない。

ただし、そのアクションが適正な、有意な行動かどうかはまた別の話である。行為そのものが目的なのであれば、成果があるかどうかは重要な問題ではなさそうだけれど。

そういう意味では、放射能とか放射線とかいうモノは、個人のレベルでも「避難する」とか「線量計を買って測定しまくる」とか「東京電力や国を叩く」とかいう形で何か行動を起こすことができる。格好のネタなわけである。それで効果があるかどうかは関係ない。重要なのは「不安に対してアクションを起こしている自分」という事実を作ることだから。

ネタが何であれ、具体的な効果が上がる必要がなければ、毎日のように PC やスマホにかじりついて朝から晩までツイートを垂れ流しているだけでも「何かやった」という満足感は得られるだろうし。


ところが、個人ではどうにもならないレベルの話になると状況が違う。昨今の典型例が「北朝鮮の弾道ミサイル」とか「北朝鮮の核実験」とかいう類のもの。まさか、自分で超小型の赤外線センサー付き早期警戒衛星を打ち上げたり、自宅の庭に X バンド レーダーやPAC-3 を据え付けて撃ったりするわけにも行くまい。

そうなると逆に、不安のタネに対して適切な判断や行動を取ることができなくなって思考停止してしまい、あまつさえ、不安の原因から目を背けて存在そのものを否定しようとするのかもしれない。

あと、ホルムズ海峡危機みたいに身近ではない話題も同様。重要な問題だけれども身近に感じられないネタでは、不安感を煽るのは難しいし、そうなれば当然ながら不安に対処するためのアクション (笑) だって起こしにくい。実際、イラン大使館に抗議デモをやった人なんて聞いたことがない。

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