Opinion : 鉄道写真撮影趣味をめぐる徒然 (後編) (2017/5/22)
|
今週は、先週の記事の続き。
実のところ、「撮り鉄叩き」に血道を上げている他の分野の人の中には、優越感というか、マウンティングというか、正義の味方ごっこというか、そういう手段にしている人がいるんじゃないの ? と突っ込んでみたい部分もある。
でも、それで「自己弁護だ」なんていわれたのでは余計な燃料投下にしかならないし、エビデンスがあるわけでもないので措いておくことにして、元の話に軌道修正 (鉄道の話だけに)。
前回に書いた「承認欲求を満たす手段に変質した鉄道撮影趣味」「優越感を得るための道具に変質した鉄道撮影趣味」。
そういう傾向に追い打ちをかけているかもしれないのが、(これは空の上なんかにもいえることだけど) 「珍しいもの」「初物」「消えるもの」に対する過剰なまでの熱狂。いいかえれば、「いつでも撮れるものを撮っても価値はない、珍しいもの・ニュース性があるものを撮ってこそ価値がある」という価値観。
「四季島」の場合には「初物」だった。一方では、いわゆる葬式鉄というジャンルが以前からあって、何か消えるという度に大騒ぎになるのは昔からの恒例。その大騒ぎが嫌で、初日・最終日は基本的に避けるのが自分のモットー。
でもね。
今は日常的で当たり前だと思っていて、誰も見向きもしない車両でも、いつかは数を減らしていって、最後には消える。そうなると突然、火災のフラッシュオーバーみたいな感じで撮影者が群がり始める。
ちょうど今日、山手線で E235 の量産車が運行を始めたそうだけれど、これも 1 編成しかないときは撮影者が群がっていた。でも、これから数が増えていくと、みんな見向きもしなくなる。ラッピング車は別として。
そして十数年が経過して引退ということになったら、また大騒ぎになる。おっと、その前に E231 500 の葬式騒ぎが持ち上がるか。
正直いって呆れたのが、北王子貨物線のケース。平素は、桜の季節以外だとほとんど撮影者がいなかった。それが、廃止直前になったらいきなりカメラの放列、王子駅のホームが撮影者だらけという珍事になった。
「なくなる前に記録しておきたい」というなら、平素から足を運ぶなり、消滅の徴候を察知して早いうちに行動を起こすなりすればいい。車両の動向や、事業者が発表する投資計画なんかを調べて、次に何が消えそうか、代替の対象になりそうかを推測するプロセスが面白いんだよ ?
でも、夏休みの宿題みたいなもんで、ギリギリにならないと行動を起こさない人の方が多いのが現実。それともなにか。いざ廃止・消滅となるまでは「今あるものはずっとある」という根拠なき思い込みがあるんだろうか ?
…と思ったものの、実際のところはむしろ「イベントの場に居合わせる高揚感」の方がメインなのかも知れない。秋葉原で Windows 95 の深夜発売があったときに、大量に人が集まってすごい騒ぎになったのと似た話で。
それは個人の自由だけれども、北海道新幹線開業初日の東京駅みたいな「よくもまあ、ホームから転落して怪我する人がいなかったな」という状況になってくると、なにがしかの規制は必要なんじゃないかと思いたくもなる。
これは以前にも書いたような気がするけれど、趣味人が葬祭屋に終始してるのは、なんかもったいないように思える。もちろん、個人の楽しみだから余計な口を出すな、という言い分にも理はあるけれど。
あと、「ゴミを散乱させる」とかなんとか、地元との関わりに属する部分でも問題はいろいろある。津軽線沿線の某所では、夜っぴて「はまなす」を待っている間に軽犯罪法違反をやらかす輩がいたとの話を聞いた。この辺になると、もう「一般常識」の話だと思うのだけど。
航空誌でも「マナーに関する注意喚起」は古くからある話なので、撮影者が集まり、かつ待ち時間が発生する場所にはついて回る問題なんだろうと思う。だからといって放っておいて許される話ではないけれど、これは個人の意識の問題だからなぁ…
そして、人と人との関わりの問題もある。自分はどちらかというと、撮影の合間に地元の方とだべるのも楽しいという人だけど、自分の世界に閉じこもって、会釈ひとつしないという人もいるらしい。そういうのも印象を悪くするんじゃないの ?
前回に書いた「逸脱が許されない理想の一枚」のために気持ちのゆとりをなくして、他のことが目に入らなくなり、状況が見えなくなって、視野狭窄に陥ってる人。少なくないのでは ?
|