Opinion : 反対だけならサルでもできる (2007/11/05)
 

日曜日の夕方、ひと仕事終えた後で「ちょいと気分転換したいし、現物を見てみたいモノもあるし」ということで、銀座まで出掛けた。

その途中、有楽町駅から少し東に歩いたところで、何やら右翼団体の街宣車らしいクルマを発見。「はて、今日って何か特別な日だっけ ?」と思ったけれど、思い当たる節もなく。なんていっていたら、反対側からデモ隊らしき集団がやってきた。いわく。

「格差社会をぶっとばそー」
「労働者は団結しようー」
「安倍はやっつけた、福田はいらなーい」
「皆さんも革命に参加してくださーい」
etc, etc

ええかげんにしてくれ。 revolution は渡辺美里の歌だけで十分だってば (え


私の常日頃の言動を御覧になっている方なら御存知の通り、私は単に「平等にしなければ駄目だ」といって、分け前だけ欲しがる人が大嫌い。努力した者が相応の成果を得るのは当然だと思うけれど、何もしていないのに分け前だけ寄越せだなんて、とんでもない。

といってもモノには限度というものがあるし、"最低限度の文化的な生活" を保証するためのセーフティネットは必要。アメリカみたいにチャリティが盛んな国だと、チャリティがセーフティネットの役割を果たしている部分があるのかもしれない。それとて、なにがしかの「自ら助けるものを助く」という姿勢は必要じゃないかと。

そもそも、格差社会解消というからには「富める者から収奪して、富まざる者に配分する」ってことになるのだろうけれど、それを実際にやったときに「富める者」が日本から逃げ出したら、いったいどうするつもりなのかと。なんだか、原資のことをあまり真剣に考えないで「1 人あたりなら安いのだから借金棒引きを」と声高に主張していた、ホワイトバンドのことを思い出した。

ともあれ、日本では言論の自由が保障されているのだから、今の政府の政策に反対するのは自由。でも、反対している人がいざ、自分たちの主張を実現する立場に置かれたら、果たして当初の主張通りにできるものかどうか。

さまざまな主張や利害が対立している現実社会、何かひとつの政策を実現しようとすれば、反対する声が上がるのは避けられない。だから、少なくとも民主主義国家において "all or nothing" 型の政策遂行は滅多にあり得なくて、出てくるものは妥協の産物ということになりがち。

だいたい、同じ自民党の中ですら、何かしら従来と違うことをしようとすると抵抗勢力が出てくる。それを受けて妥協を図ると、マスコミなんかは「改革が骨抜きになった」とか何とかいって叩くけれども、どのみち妥協しないならしないで、今度は「改革に伴う痛みがどーたらこたら」とかいって叩くんだろうに > そのへん

閑話休題。
比較的、政策面でのブレ幅が少ない自民党の内部同士ですらそうなのだから、今の政府・与党とまるっきり違う政策を掲げる人が権力を握ったら、もっとグチャグチャになる、あるいは妥協を強いられて竜頭蛇尾になる、とは考えないのかなあと。現に、政権与党になったらいきなり「自衛隊容認」に転換して風見鶏ぶりを発揮した、日本社会党の例もある (しかも、野党に戻ったらまた逆噴射したのだから、二重に風見鶏だ)。

野党とか反政府勢力っていうのは、ある意味気楽な立場で、政府・与党がやることに文句だけいっていればいい。でも、何かの間違いで (をひ) 立場が逆転したら、それまで主張していたことを貫徹できるものかどうか。「たしかな野党」が、そのまま「たしかな与党」になれるとは限らない。


ましてや、革命だ何だとかいって、力ずくで政権をひっくり返そうなんてことになったら、もっと血が流れる。アフリカあたりでは、「現政権の腐敗を正す」とかいって武力反政府闘争やクーデターをやらかして、いざ成功して自分が政権側に回ったら、もっと腐敗するのはよくあるパターン。単に「○○ハンターイ」とか「打倒○○」だけ考えていると、それがまかり間違って実現した後で、収拾がつかなくなってしまうのもお約束。

だから、反政府闘争の闘士、あるいは反政府闘争のシンボルが、いざ政権をひっくり返して国家指導者の座に就いたら、うまいこと問題をバッサバッサと解決できるかというと、むしろそうならない事例の方が多いんじゃなかろうか。

たとえば、前に blog のコメント欄でちょっと書いたけれども、ミャンマー。なるほど、ミャンマーの現政権が国内向けに鉄拳統治を敷いていて、人権もヘッタクレもないのは事実。スー・チー女史を目の敵にして弾圧しているのも事実。でも、反体制運動のシンボルに祭り上げられたスー・チー・女史が何かのきっかけで国家指導者の座に就いたら、それでミャンマーが抱えている問題がパッと解決するものだろうか。

指導者が誰だろうが、経済基盤も地政学的条件も民族紛争の問題も変わらないのだし、トップが代わっただけで問題が雲散霧消するかといえば、すんごく疑問 (フィリピンでマルコス政権が倒れた後の状況を見ていれば、決してそんなことはないと思う方が自然だと思うんだけれどねぇ…)。
でも、反政府闘争をやっている側、それを支持する民衆の側は往々にして「○○がトップになれば問題は解決する」と単純に考えてしまいがち。その希望が現実の壁の前に打ち砕かれたら、その後にやってくる反動の方がよほど怖い。

イラクの問題にしてもそう。アメリカのイラク占領政策が誤謬の塊だったのは事実だし、いろいろと問題を抱えているのも事実。じゃあ、自動車爆弾攻撃や IED 攻撃が功を奏して米軍がケツをまくってイラクから出て行ったとして、イラクがいきなり単一国家としてパッとまとまって統一力を発揮するかといえば、それは間違いなくあり得ない。ただでさえ、中東ってところは「俺が俺が」になりがちなのだから。

だから、中東みたいなところでは西欧型民主政治はそぐわなくて、むしろ王制の方が向いていると思う。ただ、王様の資質次第で結果が猛烈に違ってくるし、間違いをしでかしたときに是正するメカニズムが働きにくいところが大問題なのだけれど。

そのことを無視して「アメリカ怪しからん、イラクから出て行け」とだけ主張するのは無責任というもの。またそういう人に限って、自分の主張に都合のいいソースしか見ていない。それで、もしもイラクが無政府状態のグチャグチャになったら、きっと「アメリカ出ていけ」と主張していたのと同じ人が今度は「イラクの現状は見過ごせない、先進諸国は直ちに介入して安定統治の回復を」って主張するんじゃなかろうか :-p


じゃあ、どうすればいいの、ってことになるのだけれど。鍵は過去に何度も書いてきている「現実的な対案」じゃないかと。この「現実的な」ってところが厄介なのだけれど。

「現状はおかしい、間違っている」と思ったときに、「じゃあ、どうすれば解決できるのか。少なくとも、事態をマシな方向に持って行くにはどうすればいいか」を現実に即して (これ重要) 考えることで、"all or nothing" 的な二者択一・善悪二元論の発想を避けて、多少なりとも実現性があって、流れる血が少なくなる方策を導き出しやすくなると思う。たとえ、それがつたないものであっても、対案を考えることって重要じゃないかと。

ところが、「反抗心とやらについて考えてみた」や「弱者は強者 ?」で書いたように、「虐げられている弱者」という立場を利用して「反対々々」とだけいっている人からはえてして、この「現実的対案」ってやつが出てこない。しまいには「対案を出せ攻撃」とか「自分が対案を出して誰が聞いてくれるというのだ」といって逆ギレする。駄目だこりゃ。

反対だけならサルでもできる。でも、そんな反対意見は脆弱極まりないものだから、いざ実現しようとしても腰砕けに終わるのがオチ。それが嫌なら、少しは現実と折り合いをつけて、いざ自分が実行側に回っても耐えられるだけの内容を固めてから、かかってらっしゃい。

…ありゃ、いろいろ書いてきたけれど、段落ひとつでまとまってしまった。長々と書いてきた文章は何だったんだ (汗)

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