Opinion : 多様性と無秩序のボーダーライン (2010/1/4)
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新年早々だし、お気楽に書いてみようかと。で、何の話かというと。
多分、さまざまな分野にいえることだと思うけれど、「一糸乱れず、秩序正しく」という状態でないと我慢できない人と、「曖昧さ」とか「混沌」とかいったものを受け入れられる人がいる。だいぶ前に「日本でいちばん軍隊に近い場所」で書いた学校の話なんか典型例で、ビシッと行進しながら教室に戻る方が教師の好みだったのだろうなあ、と思ったし、今もそう思っている。
でも、どうなんだろう。何でもかんでも、そうビシッと秩序正しく運べるものなんだろうか。
昨年の暮れに、「極端な話、三人寄れば意見や利害の対立は発生する」なんてことを書いた。しかし実際には、居合わせた人がみんな同じ方向を向いて、同じモノの見方・考え方をしていないと納得できない、という人が少なくない。そりゃ無理な相談というもの。
あと、「先が見える」というか、予測がつくかどうかを重視する人もいる。「どの学校に進んで、どの職業について、何歳になったら結婚して…」とかいう具合で設計して、その通りに進めないと不安になってしまう人っていそうだけれど、どうだろう。
もちろん、秩序がきちんとしていて、はみ出す人がいなくて、先の予測がちゃんとつく方が、いろいろ意味で楽ちんなのは確か。でも、それって「秩序」とか「予測」とかいった前提条件が崩壊した途端にガタガタになってしまわないだろうか。あまりにも秩序とか安定とかいったものにこだわりすぎると、却って打たれ弱くなるように思える。
思うに、俗にサヨク (左翼とはまた違う点に注意) と呼ばれる分野の活動家とかブロガーとかいった人が異論・反論に弱い一因は、この辺にあるような気がする。
もちろん、彼等の論拠・根拠がいい加減だとかいう事情もあるだろうけれど、それだけでなく、彼等が求める「秩序」が乱されたときに落ち着いて対処できなくなってしまう、なんていう理由もあるのではないかと。つまり外乱に弱いから、異論・反論のことを「荒らし」とか「攻撃」とかいう言葉で罵倒してしまうのでは。
言い方を変えるならば、フレキシブルワイヤー vs アングルバー、柔構造 vs 剛構造、といえるかも。飛行機の主翼でアスペクト比を高くとったときに、空力弾性体だから空中分解しないで済んでいるのと似ている ? (←なんだそれ)
個人だけでなく組織のレベルでも、純血主義の度が過ぎて、同じような考え方、同じような方向だけを向く人ばかりになると、発想が硬直化してしまうし、柔軟性もなくなる。いろいろな考え方をする人が集まっている方が、発想の硬直化、あるいは特定の方向に暴走する危険性とかいうものからは、遠ざかれるように思える。
つまり、最初に規定した「秩序」とか「先の予測」を守ることにこだわるよりも、さまざまな対処方法を用意しておいて、状況に合わせて打ち手を変えていける方が乗り切りやすいだろうし、それには平素から視野を広く持ち、柔軟な思考ができるようにしておかないと、ということ。
もちろん、カオスの度が過ぎて完全な無秩序状態になってしまっても困るので、なにがしかのルールというか、ガイドラインというか、極端にすっ飛んだ部分を切り捨てることは必要。それでも、多様性とか幅の広さとかいったものを許容できるぐらいの方が、強い個人、あるいは組織ができるのではないかと思う。これはひょっとすると、全体主義国家に対する民主主義国家のアドバンテージといえるかも。
では、今の民主党みたいなのは多様性があっていいんじゃないか、という話が出てくるかも知れない。実際、元自民党もいれば元社会党もいて、人によって主張の内容には隔たりがありすぎる。ただ、そこで欠けているものがあるとすれば、「党としてのまとまり」というルール。つまり、各自がそれぞれの立場からいいたいことをいうだけで、しかもトップが八方美人だから、あっちにもこっちにもいい顔をしようとして (?) 発言がぶれる。
基本的に目指している方向についてはコンセンサスがとれていて、その過程で手段・手法に関してさまざまな見方に基づくチェック & バランスが働く、というならよいけれども、真っ向から相反する主張が入り乱れて足の引っ張り合いになるだけでは、ただの無秩序。多様性と無秩序の間には、微妙だけれども確実な境界があると思う。
ついでに嫌味を書くと、世の中には「多様性が必要だ」という名目で「代替選択肢」ばかりをプッシュする人もいるので、ちょっと用心する必要がある。
あれ、あまりお気楽な話ではなくなっちゃった (汗)
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